真宗 大谷派 存明寺

そこに人がいる(住職の法話) 

宗教者災害支援連絡会第32回情報交換会

お話 酒井義一(真宗大谷派存明寺住職)

講題 「そこに人がいる」

―人はみな誰もが、居場所を求めつづけている―

 
2018年1月15日(月)16:00-20:00
上智大学

報告
酒井義一氏(真宗大谷派存明寺)
「そこに人がいる」
―人はみな誰もが、居場所を求めつづけている―
 

いままでの歩み

 「動きながら学ぶ」という言葉があるが、動くことでいろんなことを教えていただきながら歩いている者で、東日本大震災の支援にも関わらせていただいている。2004年7月に真宗大谷派東京教区のなかに「同朋社会推進ネットワーク」(同朋ネット)という組織ができ、災害支援、自死問題、グ゙リーフケアなどをテーマに動き始めた。私はこの組織の責任者として、若い方々と「これからの教団は災害支援に本腰を入れて取り組まなければならない」と話し合っていた矢先、同年10月に「新潟県中越地震」が発生した。実は何もできずに、テレビで遠くで起こっている出来事のように見ていた。11月の中頃、同朋ネットの仲間達と東京から3時間ほどかけて小千谷市を訪れた時、「こんなにも近いところに被災地があるのか」というのが第一印象だった。
 余震が続く被災地に多くの人がいるのに何もできずにいたが、そこで忘れられない光景を見た。新潟の僧侶達や門徒達が大鍋で300人分の中華丼の炊き出しをしている。子ども会活動をしている人達は避難所となっていた小千谷総合体育館の子ども達と一緒に遊び、語り合っている。自分達は何もできなかったけれども、被災地におもむいて被災者と寄り添いながら生きようとしている人達がいる。そのことがとても大きな事だった。
 それから東京教区に掛け合い、組織として災害支援に動けるよう、スタッフを確保し、支援金を集めるための口座を開設するなど、「人と物と金」を揃えることが始まった。大谷派東京教区約460ヶ寺に所属する若い僧侶や門徒へ瞬時に情報が流れるようなネットワークを構築し、支援備品や物資を揃え、ボランティア活動のための基金を用意するなど、災害発生時の体制づくりを進めていた矢先に、2011年3月11日の東日本大震災が発生した。
 この大震災は、私達にとって「お前たちはどうするのだ?」と、自分達の生き方が問われる出来事だった。東京教区の責任者と話し合い、教区として支援活動をすることを決議していただいた。これは有志だけで支援に動くのではなく、親鸞の名ををかかげる教団が、自ら被災地に身を運び、被災者とふれあいながら支援するという活動に、逃げ道を断って取り組み始めたという、大きな流れであった。
 現在は支援活動として2ヶ所の仮設住宅へ定期的に訪問を続けている。一つは宮城県石巻市の小網倉という漁村で、ここは津波被害に遭った場所である。もう一つは福島県いわき市の好間で、ここは原発災害に遭った双葉郡富岡町の方々が避難している。訪問を続けてもう50回ぐらいになるかもしれない。そこで人との出会いがあり、言葉との出会いがあった。
 最初に訪問した頃は救援期であり、緊急を要することが三つほどあった。まず津波被災の後片付けである。泥だしをしたり、捜し物をした。被災寺院からご本尊を探してほしいと頼まれ、津波の跡をかき分けながら木像の阿弥陀如来像を探したこともあった。それから支援物資の配布がある。私は震災発生の2週間後に訪問を始めたが、食料など支援物資が不足している時期であった。幼稚園には絵本を持っていくなど、必要とされている物資を運び、そして暖かくて野菜などが豊富な食事を提供することなどが主であった。
 当時は毎週訪問することを決めていた。私が毎週訪問するのではなく、活動を任せることができる比較的年齢が高い人を五、六人リーダーとし、ネットで呼びかけて、人が集まってチームを組み、二泊三日で訪問を続けるというローテーションを回した。
 被災地に訪問を続けながら、毎回私の心に湧き上がってくる思いがあった。毎回何かの支援をして東京に戻ってくるのだが、「これでいいのか」という思いがいつも湧きあがり、消えなかった。甚大な被害を目の当たりにして、不安を懐き悲しみを懐いている方々を前にして、自分達には些細なことしかできない。これでいいのか、もっと他にやるべきことがあるのではないかという思いが消えないまま、支援活動を続けていた。落ち着いて考えてみれば、「これで完璧だ」などと思うほうがおかしいのだが、「何かが足りない」という思いがずっと消えなかった。あとから、「ボランティア難民」という言葉を教えていただいた。自分はいろんなことができるのだ、という思いをもって被災地へ行くと、意外と自分が出来ることは少ない。ボランティア活動の中に自分が溶け込めない、居場所を見つけられないという思いを抱いてしまうという話を聞いて、私もそのひとりなのだと思った。
 

そこに人がいる

 訪問の中で、悲しい言葉とも出会った。小網倉で足湯ボランティアをしていた時に、当時75歳くらいの女性の方がおっしゃったことである。
 私の「ここの生活は慣れましたか」という質問に、
「寂しくなってね、昔は海辺に近い大きな家に大家族で生活をしていたけれど、津波以降はじいさんと二人の生活になってしまった。あなたと同じくらいの息子がいたけれど、消防団で防波堤のハッチを閉めに行って、津波を見張っていた時に津波にさらわれてしまい、三ヶ月後に変わり果てた姿になった息子と対面した。嫁と孫は石巻に引っ越してしまい、今はおじいさんと二人だけでこの仮設住宅で暮らしている。」
 私の目の前でボロボロと涙をこぼされながら、「くやしくてね、くやしくてね」と本当にくやしそうに語ってくれた。私が被災地で、大事な人を失った被災者が自分の言葉でくやしさ、悲しさを表現するところを目の当たりにしたのは、これが初めてだった。2011年の6月頃だったと思う。私はなにも返す言葉がなかった。私の母親と同世代のその女性が長男を亡くし、それだけでなく家族一緒に生活する環境を無くした中で、それでも一生懸命に、くやしさを抱きながらも生きようとしている姿勢に触れて、気の利いた一言など出ないし、出てくるほうがおかしいと思う。私は言葉などまったく出ないまま、その方の姿を目に焼き付けていた。
 忘れられないことはたくさんある。2011年7月に岩手県大船渡市の越喜来にある避難所を訪問した時、支援メニューの中にかき氷があった。かき氷機とたくさんのシロップを用意して、子ども達とふれ合う時間を持った。その時に被災地で初めて紙芝居をさせていただいた。子ども達は大変に喜んでくれた。その中に小学生低学年の女の子がいて、私のためにかき氷を作ってくれて、プレゼントをしてくれた。私が思わず「ありがとう」と声を掛けたところ、その女の子は、
「こっちこそありがとう。」
 たったそれだけの会話なのだが、その言葉の雰囲気がすごく温かく、自分がその言葉に包まれたような感覚があった。「こっちこそありがとう」とは、ここまで来てくれて自分たちのためにかき氷を作ってくれてありがとう、という意味なのかもしれないが、私はその言葉にふれて、とても励まされたような気持ちになった。「これでいいのか」と思いながら訪問しているのだが、「人々の悲しみに寄り添えるような人間でいてね」という、そのようなことを小学生の女の子は言わないだろうが、そのように言われているような想いがした。
 その時に、災害支援の中で出会った言葉を思い出した。「支援する者が支援されている」という言葉を聞いたことがある。支援する者が実は支援をされている、という言葉で、支援されるべき人がいてその人を支援するというのが世間一般の災害支援に対する考え方なのだが、支援する側が被災地にいって支援される。その深い意味はよく分かってはいないが、私は生きる姿勢が支援されるとか、災害によって様々な困難を抱える人々と共に生きようとする姿勢が支援されているとか、相互に支援される関係というのが、被災地には用意されていたのではないだろうか。どちらかが一方的に支援するのではなく、相互に支援し合うという関係を見失ってはならないのではないだろう。
 もうひとり、いわき市の好間仮設に生活されている七十代の女性の言葉を紹介したい。あの日、富岡町で大きな揺れを感じて、やがて原発が爆発するかもしれないと、直ちに着の身着のままで避難させられた。三日もたてば帰れるのだろうと思っていたが、それから四ヶ月もの間、東京、埼玉、郡山と各地を転々とし、8月にやっと仮設住宅に落ち着いた。けれども仮設住宅は終の住処ではない。その年の12月くらいだったが、私がその方に「今一番願っていることは何ですか?」とうかがうと、このようにおっしゃった。
「心の底から落ち着ける居場所がほしい」
 七十代の女性はこの言葉を確かに私達に伝えてくださった。人間には食べ物や着るものも大事だけれども、このことひとつと問われた時には、本当に心安らぐことができる居場所を求めずにはおれないものを、誰もが心の底に抱えているのではないかと、とても強く感じ、私にとっては忘れられない言葉となった。
 福島県の一番南にあるいわき市好間の仮設住宅には、一泊二日の日程で訪問を続けている。もう炊き出し支援などの時期ではなく、お互いに事前にメニューを決めておいて、仮設の方々が買い出しをしてくれて、一緒に調理して夜にお食事会をしたり、喫茶コーナーや念珠づくりコーナーで会話をしていく。この会話をしていくというのがメイン活動になっている。ただ会話をしましょう、というだけではなかなか盛り上がらないので、食事を一緒に作りながら、あるいは念珠を作りながら、足湯をしながら、お酒を呑みながら、今の自分の思いを聞き合い語り合うというのが、今の活動のメインかと思う。
 仮設での時を一緒に過ごして、私達は「帰る人」なので、仮設をあとにするのだが、その時に仮設の皆さんが出てきて、最後の見送りをしてくださる。本当に私達の姿が見えなくなるまで「また会おう」と手を振って送ってくださる。夏の暑い夕方も、冬の寒い夕方も、私達の姿が見えなくなるまで手をふって見送ってくださる。私達もその姿が見えなくなるまで、車の中から手を振ってひとときの別れをする。
 帰路は常磐自動車道を通る。あまり報道はされなかったが、常磐道にも被災があり、北茨城とかひたちとかを通過する時、かなり長期間復旧工事をしていた。二車線のうち一車線を閉鎖して工事をしているところどころに看板があり、「人がいます」と書いてある。工事のため人がいるから注意をしてください、という意味なのだろうが、その看板の言葉が私にすごく響いてきた。仮設住宅には暑さ寒さを乗り越えて最後まで見送ってくれる人がいる。「心の底から落ち着ける居場所がほしい」という形で自分の願いを表現している人がいる。「そこに人がいる」、そのことを忘れてはならない。そこに人がいる。その「人」とは、出会うべき人でもあるし、聞くべき声を発する人でもあるのではないかと思う。
 

被災地はいま

 最近私が感じることのひとつは「つながり」ということ。私達が訪問すると、かつて仮設に住んでいて今は家を持って仮設から出ていた方々が集まってきてくれる。その方々は私達の立場に立って一緒に買い出しをし、準備をし、一緒にお酒を呑み、反省会もするなど、支援のメンバーのような形になっている。今は支援する者、される者がきちんと分かれていないような感じである。最近のことだが、その方々と作業をし終わって、近くの飲み屋さんに十何人かで呑みにいったことがあった。その時にかつて仮設で暮らしていた女性が、本当にしみじみとおっしゃった。
「感謝しているからね」
 そのような言葉を聞いたのは初めてだったので、お話をうかがってみると、富岡町から避難してきたが、元々顔見知りでない関係だったので、この人達はどういう人なのか皆さん疑心暗鬼になりながら、なかなか人と触れあえない状況であったそうだ。その仮設の人間関係が始まった時に、秋祭りとか冬祭りのような感じで外部から人が来て、そこでコミュニティーを開いてくれた。あれがあったからこの人と話をすることが出来たという感じで、人間関係がどんどん広がっていくことができた。そのことを「感謝しているからね」と、本当にしみじみとおっしゃった。その女性は涙ぐみながら私達にその言葉を届けてくれた。
 私は本当に「これでいいのか」という思いを抱きながら被災地に通っていた。それは正直な自分の思いなのだが、そういう思いを抱きながらも、支援という行為そのものは、自分の思いを飛び越えて、行為を通してなんらかのものが相手に作用しているということもあるのではないか、ということをその女性から教わったような気がする。行為そのものが、思いを越えて相手に別の形で伝わるということがある。だから「私はこんなことしかできなくて、何をやっているのだろう」という思いを抱きながらの行動だったのだが、その女性に「ここにきて場所を開いてくれたことが今となっては有難かったよ」、「お前も頑張れよ」と言われているような気がした。
 今、仮設住宅はそろそろ閉鎖される時を迎えており、今年の三月末までに新しく出来た復興住宅、あるいは借り上げ住宅に移ってもらうのが富岡町の方針のようで、現在、60件ある仮設住宅の、およそ三分の二の方々はすでに仮設住宅を出ている状態である。経済的に余裕があるとか、あるいは進学などの事情がある比較的若い方々は仮設を出て行かれている。残されているのは高齢者や障がい者の方々、あるいは何らかの理由のある方々で、集会所も閉鎖されて、かつてのように訪れるボランティアもほとんどいなくなっている。仮設住宅は今とてもひっそりとしている。
 先週の木曜日に好間仮設を訪問して、辛い思いで聞かせていただいたのは、81歳になるご婦人が「今楽しみなのは、近くにあるパチンコ屋に通うこと」と言っていたこと。そんなはずはないのではないかと思った。確かに震災で起こったことは故郷を奪われるという劇的な出来事だったのだが、あれから7年という時が経って、毎日何も変わらない日々がずっと続く中で虚しさを抱え、このご婦人はパチンコ屋通いをやめられなくなった、と語っておられた。
 このような情況にある方に私達はいったい何が届けられるのかという課題をいただいたことを痛感した。このご婦人は念珠づくりが得意なので、東京から念珠の道具を送ってお数珠を作ってもらって、それを東京のお寺で売るという、東京のお寺にその人のお店を出していただくということを進め始めている。その収入をこの方へ送ってまたお数珠を作ってもらう、つまり商売、お店を出してもらうということを今考えている。
 被災地を訪問する中で「分断」ということを感じている。仮設住宅の中では今まで様々なドラマがあったと思うが、震災直後から7年という時を一緒に過ごした方々の人間関係にはとても大切なものがあるだろう。しかし、その人間関係も仮設住宅が無くなることでだんだんバラバラになっていくということを強く思う。それが「分断」ということで、これから移る復興住宅でどのような人間関係が築けるのかが、仮設の方々の一番の不安だと思う。今までお付き合いさせていただいた者の責任として、新しい復興住宅で夏祭りとか秋祭りを開いて、人々が出会っていけるようなコミュニティーの場をつくっていこうと考え、先日下見をしてきた。もうしばらく被災地に関わらせていただこうと思っている。
 

災害支援の広がり

 支援活動を通して、これから災害支援活動の広がりということを考えようと思っている。一つは「グリーフケアの動き」である。私も2007年からこの動きに関心を寄せており、自分が住職を務めるお寺で「グリーフケアのつどい」を季節ごとに開いてきた。グリーフケアは死別が大きなテーマであるが、原発事故で故郷を失った、ペットを失う、離婚するなど、様々なことによって今まで自分が大事にしていたものを失った方々が、このグリーフケアのつどいに集まってこられる。2007年から10年以上動く中で痛感していることは、「人はみな何らかの問題を抱えて今を生きている」ということである。
 親鸞の教行信証の中に、五濁・五苦・六道という言葉が出てくる。人間は誰もが五つの濁りを抱え、五つの苦しみを抱き、六つの迷いを生きているということを示す言葉である。
 五濁(ごじょく)の中に「見濁」、見ることの濁りがある。これは自分を中心にしかものを見ることができないという濁りで、人類共通の濁りである。人間は自分中心にしか物事を見ることはできない。自分中心に見ることで、その結果として確かな心を見失い、他者の心が分からない、そこに人がいるにもかかわらず、自分しか見えず、人を見失うという濁りを誰もが抱えている。言葉を変えれば、その濁りさえ破られれば、ここにも自分と同じような思いを抱いている人間がいたのだという出会いに通じていくことをあらわす言葉であると私は受けとめている。誰もが自分中心にしか見ることができない濁りの中を生きている。
 五苦の中に「愛別離苦」、愛する者と別離する時に感じる苦しみがある。言葉を変えれば、愛する者を失った時に人間は苦しみや悲しみを感じることのできる力を与えられている、と私は読みかえている。それは仏教の教えや精神から言えば、必ず意味がある、願いが込められていることなのだと逆説的に受け止めている。
 六道の一番上の世界は「天上界」という世界で、何ひとつ不自由もなく楽しい世界。しかし虚しさを越えられない世界であるという。生涯を尽くす仕事を見出せないという世界、その時さえ楽しければよいという世界であり、自分の生涯を貫くような願いが見出せないことが天上界の虚しさとして表現されている。先ほどのパチンコ屋通いをしているご婦人は「パチンコが楽しい」と言っていたけれども、本当はそれは違うのではないだろうか。パチンコに頼らなければ日常が保たれないという虚しさが、今人々を襲っているのではないかと思う。
 「人はみな誰もが問題を抱えている」ということは、被災地支援で私自身が感じていることで、お寺でのグリーフケアのつどいでも、そこに集まる方々は様々な問題を抱えているということを強く感じる。だからダメなのだと言うのではなく、そのような問題を抱えるからこそ、その人に届けられるあたたかな世界、心、精神、教えがあるということを明らかにしていくことが、私はひとりの宗教者としての仕事なのではないかと思う。もちろん自分を抜きにして明らかにすることなどはできないのだから、私も問題を抱える者のひとりとして、そういう世界に積極的に出会い、そして感じ、表現していくということを、宗教者の大きな役目としていきたいと感じている。
 親鸞の言葉にある「苦悩の有情をすてずして…大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』)とは、苦悩の有情を見捨てない世界があるという親鸞の宣言であり、人間の存在を徹底して悲しみ続けていくことへの愛と力を感じる。それは悲しいことだぞと、人間を見つめていく頼もしさやいとおしさがあるのではないだろうか。
 私が「ひかりの言葉」として頂いている大谷派僧侶お二人の言葉がある。
「悲しみは 人と人とをつなぐ 糸である」(藤元正樹)
 ひとりの人が悲しみを抱えて今を生きているけれども、それは決して孤立することではなく、同じように悲しみを持って今を生きている人と、悲しみを縁として、人と人とがつながっていく。私はこういう世界が開かれていくことが、人間の世界に求められていることだと感じている。
「苦をまぬがれるには その苦しみを生かしていく道を 学ぶことです」(蓬茨祖運)
 苦しみをまぬがれるには、その苦しみを消していくということではない。苦しみを消したり、紛らわしていくということをついつい考える。それも切実に。けれども、蓬茨祖運先生は、苦しみを生かしていく道を学んでいくということが、苦を乗り越えていくたったひとつの方法、たったひとつの道なのだとおっしゃる。苦に光を当てるというグリーフケアの動きは、私は災害支援の先に、私達が進むべき道として、すでに用意されているのではないかと思う。
最後に「こども食堂」の動きについて触れたいと思う。こども食堂は2015年に全国に広がった、子どもの貧困という問題、あるいは経済的な問題はなくても一人で食事をしている「孤食」の問題に一石を投じるために始まった動きであり、現在、全国各地で推定500以上のこども食堂があるのではないかと思われる。宗教関係者も多数関わり、寺院や教会で「こども食堂」が開催されており、私の寺でも2015年9月から始めている(『文化時報』2018年1月10日)。
 こども食堂は、私にとっては被災地で行ってきたことを寺で行っているという感覚がある。炊き出しで食事を提供する。それで終わりではなく、そこで交流が始まる。こども食堂では、仏教紙芝居をしたり、子ども同士や親同士が交流するということを大切にしている。2年以上経ったが、そこで思うことは、皆誰もが「居場所」を求めているのだということ。子育て中の母親も父親も、子ども達も、その動きに関わるスタッフも、そして私自身も。このような形で人と触れ合ったり、交流したりする「居場所」というものを、人間は本来心の奥底で求めずにはおられない存在なのではないかと感じている。
 

質疑

  • 白波瀬:一貫するキーワードとして「居場所」があったと思う。お寺を居場所にするための工夫。特に子ども食堂で、門徒様以外にひらくための工夫や変化や門徒様の反応などどうか。
  • 酒井:語ることと聴くことは、居場所作りに欠かせないと思っている。被災地でも同様。ひとりひと言コーナー。今自分が思っていることを語り、周りの人はその話をしっかり聞く、そして聞いて感じたことをなんらかの形で表現し、応答する。最近出会ったあるお母さんの相談。公園ではママ友には相談できない、「暗い」人と思われてしまうから。自転車で来られる程度の距離感のご近所の方が、門徒ではないのにお寺に集まってこられるのはこれまでになかったこと。子ども食堂は食事をしてもらい、交流を深めるということを大切にしている。法話や仏教行事はしていないが、お寺が一人ひとりを大事にする場なのだということで、お一人おひとりに声をかけたり、名前を覚えたりということには取り組んでいる。ここから人間関係が広がっていけば。また誰かがお寺に将来関わって下されば面白いと思う。
  • 石田(浄土宗総合研究所):大谷派の東京教区との取り組み、宗派の活動、組単位の小さい活動との連携は?
  • 酒井:東日本大震災には30代40代の方が積極的に活動に参加した。もともと大学の同級生や研修で一緒だったなどの横のつながりがあったが、東北での震災支援の動きがSNSで広まり、最初は個人の動きであったが、だんだんと教区単位の動きになっていって、その動きがまたSNSを通じて知られ、相乗効果で一気に広がっていったように思う。教区単位の動きが基本であるが、複数の教区が連携して動くこともある。私が所属する組(そ)20ヶ寺が組織的に動くということはなかったが、東日本大震災の支援金として組から毎年20万円を寄付していただき、その使途はまかせていただいている。
  • 稲場:浄土真宗の中には、ボランティアの動きは親鸞の教えの本筋とは違うのではないか、浄土の慈悲とは違うという問いかけがあり、それが支援活動のブレーキになっているという見方もある。このような動きにどのように応えてきたか?
  • 酒井:親鸞の言葉(『歎異抄』第4章)に、慈悲に聖道・浄土のかわりめがあって、聖道の慈悲というのは人間の力で相手を「あわれみ、かなしみ、はぐくむ」という心なのだがそれはすえとおらない、徹底しない。それに対して浄土の慈悲、仏を念じて、仏さまとなって、大慈悲心をもって、思うとおりに衆生をたすけていく、徹底していくという、自力無効を説いたところがある。そこから人間が行うボランティアというものは自力であり、すえとおらないという発想が、浄土真宗を学ぶ人の中に育っていったのではないか。しかし、親鸞の言葉には「聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり」(『御文』第1帖第1通)と、宗派を超えて、いろいろな悲しみを抱えて今を一生懸命に生きようとしている人間を「同朋」、つまり道を求める人として見い出される箇所もある。親鸞がどう言っているのかということよりも、自分の主張を親鸞の言葉で意味づけたり、あるいは動かない自分を正当化したり、逆に動いている自分を正当化しようとすること。それは間違う可能性が非常に大きいのではないか。ではどうすればよいのかはよく分からないが、私は今は身を運びながら、動きながら、もう一度親鸞の教えや言葉を自分なりに読み返してみようという方法を大事にしていきたいと思っている。
  • 島薗:存明寺だけの変化なのか、なんらかの周囲の協力者もあったりするのか。存明寺の変化をもたらしたのはどのような動きだったのか。
  • 酒井:これから先の教団は、寺檀関係を越えた、災害支援や貧困支援という関わりをしていく必要があるのではないか、そのような動きがいろいろな教団で出始めているのではないか、ということを感じている。宗教者自身が、変わっていくことが時代社会から願われている。動きながら、いろいろなことを学び、表現していくことのできる宗教者の誕生が待たれているのではないか。
首都圏でハンセン病問題にも関わっており、1月、2月に会があるので、チラシをお持ち下さい。

大川小学校2013.02.13

以上「そこに人がいる」(住職の法話)でした。

お寺からのお知らせ

〇5月3日(金)12:30~ 永代経法要
荒山淳さんの法話・永代経法要・
ヒナタカコさん「いのちの灯」コンサート
〇5月11日(土)13:30~樹心の会小林氏&井上氏
〇6月4日(火)14時~ 聖典輪読会
〇6月8日(土)13:30~樹心の会岡田氏&熊﨑氏
〇7月1日(月)13時~ おそうじの日
〇7月6日(土)11時~ 新盆法要の日
〇7月9日(火)14時~ 聖典輪読会
〇7月13日(土)10:30・11時・13時 おぼん法要
〇7月21日(日)10:30~ 夏の法話会
講師:和田英昭氏(岐阜照明寺住職)
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親鸞と出遇うお寺
真宗大谷派 存明寺

存明寺の動画コーナー

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◆動画「親鸞からの風に吹かれて③」2022年3月

◆動画「親鸞からの風に吹かれて②」2021年12月

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◆動画「存明寺の永代経2021」2021年5月

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