真宗 大谷派 存明寺

コロナの時代を親鸞と生きる (住職の法話)

コロナの時代を親鸞と生きる (住職の法話)

                  酒井 義一(真宗大谷派存明寺住職)

 

 

 

 

 

 

 

1 コロナをきっかけに教えに照らされていく

 色々な困難が私たち人間を襲っている時代を迎えました。そのような日々をお過ごしの中、やはり仏さまの教えを聞くことが大事なことだということで、この場(長野県)に身を運ばれたのだと思います。そのようなお一人おひとりの姿勢に対して心からの敬意を表します。
 私は今ご紹介を頂きました酒井と申します。東京から来たということはなかなか言いにくい状況です。感染者が多いものですから、肩身の狭い日々を過ごしています。 東京の世田谷というところのお寺の住職をしております。今日はなるべくあまり大きな声を出さず、あちこち動き回らず、2メートル以内には近づかないように(笑い)しますので、安心してお付き合いを頂ければと思います。
 本当に申し上げたいことは今回ひとつであります。最初にそのことを申し上げたいと思います。
 コロナという時を急に迎えてしまいまして、聞法どころではない、こういうことではなくて、コロナという時代が来て、その中で人間はいろいろなものを抱えるわけであります。コロナ鬱とかコロナ離婚とかコロナ差別とか。これからどうなっていくのだろうという不安や孤独感。人間ですからいろいろなものをコロナをきっかけに抱えるわけでありますが、それが教えに照らされていく大きなきっかけとなっていくのだという、このことひとつであります。このことを今本当に私たちが実践していく。コロナを言い訳にして、仕方がないと歩みが終わってしまうのではなくて、コロナという時代を生きながら、一人ひとりが確かな教えに照らされるような道を見いだして歩んでいく。これが私たちの最大の課題なのではないかと思います。

 

 

2 お釈迦様の出家のわけ

 なぜそのようなことが言えるのかということについて、ご一緒に言葉を見ていきたいと思います。一番目の言葉はお釈迦さま、つまり私たちに先んじて確かな教えに頷いた方が出家された時の言葉、非常に有名な言葉がありますので、それを改めて味わってみたいと思います。

 見老病死 悟世非常 捨國財位 入山學道 (仏説無量寿経 真宗聖典3ページ)
  (老・病・死を見て世の非常を悟る 国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう)

 お釈迦さまは一国の王子様でした。しかし「見老病死」ですから、老病死という人間の現実を見て、世の非常を悟る。そして一国の王子という位や財産を捨てて山に入って道を学んで行かれた。これが仏教の原点です。道を学ばれた、道を求める人になっていった。この老病死の現実を変えようとしたのはなくて、老病死という現実を見て、人間として学んでいこうと、そういう志が仏教の原点であります。改めて、コロナを通してこの言葉を見てみると、老病死という、老いと病いと死というふうにポンポンポンと出てきますが、これには人間の様々な煩悩が巻き起こってくるわけであります。老ということについては、人間の価値観で老人をかたすみに追いやるような、そういう問題が世を覆ってしまうとか、あるいは病気ということでその人を嫌ったりする。今がそうです、今の世の中は病気を、あるいは病気になった人を嫌うということが大きな問題となっております。あるいは死ということで、もっと何かができたのではないか、という人間の自責の念や悲しみとか、いろいろなことが起こるのが人間であります。そういうことがまさに縁となって、仏法に出会うということができるのかということがひたすら私たちに願われているのですし、待たれているのですし、問われているということを思うわけであります。

 

 

3 インターネットを使った法話会
 
 ここ半年のことをご報告させていただきます。2020年(令和2年)2月22日(土)、初めてお寺の行事がコロナのために中止になりました。子ども会という会で、地域の子どもたちがお寺に集まり、一緒に「正信偈」を読んで、お話を聞いて、一緒に遊ぼうというつどいです。それが初めて中止になりました。そこから軒並みお寺の行事はほぼすべてが中止になりました。そして同時に各地で行われている研修会や会議なども一斉に中止となりましたので、長い空白の時間となってしまったわけです。その間にはステイホームの中でいろいろなことを感じ、そして時に家族同士がいがみ合ったり、時にお互いに励ましあったりして、日々を過ごしていました。
 その後9月から少しずつお寺の活動を始めているところであります。ただし、東京は感染者がとても多いですから、以前のようにお寺に集まって何かをするということが甚だ困難でありますので、現在はインターネットのZoomという、自宅にいながら参加できる便利なもの、私も知らなかったのですが、コロナの時代になってZoomの使い方を教えていただいて、9月になってお寺の行事はZoomで参加する方法と、それから10~15名という人数制限をしてお寺に直接来られる方、その両方をつないで、法話会というものを始めてみました。そこで思ったのは、当然久しぶりだったのです。お寺で法話をさせていただくというのは。勿論拙い法話だったのですが、そんな私の拙い法話を生で参加された10名ほどの方とそれからインターネットで参加された方々が真剣な表情をしながら聞いてくださいました。そして座談会の時間になり、それもZoomを使いながらの座談会で、話を聞いてそれぞれ自分の思いを語るという、以前となんら変わらない聞法座談ということができたのですね。できたというか、できるんだなという、それが喜びでありました。
 一人ひとりがこの7、8ヶ月の間、いろいろな思いをしながら生きてきたということが伝わって、今は面と向かうことはできないのですが、直接話を聞いて、そして今の自分を語っていくという、こういう瞬間がやはり人間には必要なのだということを、今とても強く思っているわけです。だから、しばらくは「お寺に来てください」ということが憚れる状況が続くかと思うのですが、そのような中で、今私は一体何をするべきなのかということを悩んで、そして今できることを少しずつやらなければ、何かコロナに対して悔しいという、そんな思いがしております。

 

 

4 人と出会うという場をずっと求めている

 それからもうひとつ報告したいことがあります。子ども会が2月22日に中止になりましたが、今私が住職をしているお寺ではいろいろな方々が子ども会活動を担ってくださっています。一つは子ども会、もう一つは子ども食堂、もう一つは子育てサロンというのがありまして、月に3回子どもたちがお寺に集まってくる会がありました。それが2月22日を境にすべて中止になり、お寺から子どもたちの声が消え、本当に静かなお寺になってしまいました。8月になって初めて子ども会を再開したのですが、それも大勢の子どもたちが集まるという状況ではないので、4~5人ずつのグループを4つ作りまして、一時間だけの、しかも距離をとりながら、それも真夏の暑い時期でしたから、夏祭りの ようなコーナーを作って、子どもたちと触れあう時間を持ったのですね。その時に感じたのは子どもたちも大変だったのだなということです。3月に学校が閉鎖になった。それは感染予防のためということになっていますが、別の言い方をすれば、子どもたちが学校に行くこと、子ども同士が触れあうこと、学ぶということが突然消えてしまった。しかも全国一斉にですからね。そして3月の卒業式や4月の入学式が行われずに、6月まで自宅待機。そのような中で、8月の子ども会で子どもたちに会ったわけです。前にもまして、目をキラキラと輝かせて、本当に人なつこさを以前にもまして持ちながら、お寺に集まってくるという光景があったのです。
 だから本当に強く感じました。変わらずにお寺という場、子ども会という場を求めている人がいるのだと。この状況の中でも。本当に子どもたちは求めている。それは場所という意味もありますが、人と触れあうこととか、人と出会うという場をずっと求めている。人間とはそういうものなのだということを子どもたちから教えていただいた気がしております。

 

 

5 〇〇があったからこそ、という生き方がしたい 

 コロナという時代を生きる中で、新しい言葉との出会いがいくつもありました。今から言葉を紹介しながら、自分が感じたことをお話させていただきます。

 ○○さえなければ という生き方はしたくない
 ○○があったからこそ という生き方がしたい

 2011年の東日本大震災の時に東京教区の仲間たちと被災地支援活動が行われていたのですが、この言葉は福島県いわき市で出会った方が仰っていた言葉です。その方は原発事故によって故郷に住むことが出来なくなり、福島県いわき市の仮設住宅で生活をされていました。仮設住宅の中で故郷の友人たちといろいろな話をする。しかし、ある言葉が出てしまうとそれより先に進めない言葉があるのだということを教えてくださいました。それはどういう言葉かというと「故郷ではこんなことがあったなあ」と話すのですが、「あの原発事故さえなければなあ」という言葉なのだそうです。この言葉が出ると、みな黙ってしまって、それ以上先に行けないのだということを私たちに何度も語ってくれました。例えば、秋は山に豊かな実りができる季節ですから、キノコを取りに山に入りそれを食べるのが楽しみだったそうです。しかし、原発事故の放射能によってそれができなくなった。鮎を釣って食べるということもできなくなった。あの事故さえなければなあ、と。そういうふうに人間が身動きが取れなくなってしまう状況があったわけですが、そのような中を生きるひとりの人が、「○○さえなければという生き方は、もうしたくない。あれがあったからこそ、という生き方がしたい」と仰って、その仮設住宅から離れて新たな生活を始められたのです。そういう姿がとても印象的に残っており、今思い出すのです。そういう言葉を。あれは原発事故によって故郷を奪われた方が仰った言葉なのですが、今度は自分の番だということです。つまり、コロナさえなければもっと違う生活があったのにという生き方はしたくない。これは私たちも学んでいかなければならない生きる姿勢であり、宣言ではないかと思います。コロナのおかげでとまでは思いませんが、コロナがきっかけとなって、新たな世界が発見されたという生き方を私たちは求めていくべきではないかということを思っております。

 

 

6 ウイルスは人を傷つけ生きのびる 私もです

 今、お寺の掲示板が注目されています。ネットにはお寺の掲示板専用のページもあるくらいで、各お寺の掲示板の言葉を簡単に見ることができる時代になりました。私も時間があるときに見ているのですが、その中にこんな言葉がありました。これはすごい言葉だなと思ったのが、浄土真宗のお寺の掲示板にあった次の言葉です。

 ウイルスは人を傷つけ生きのびる 私もです

 浄土真宗の本願寺派のお寺にあった言葉だったと記憶しています。とにかく浄土真宗の世界がそこに流れているような思いがします。なんとウイルスに自分を重ねて見てみる、そういう世界を教えて頂いたような気がします。これは最近知ったことですが、 ウイルスと細菌というのはまったく違う生き物なのだそうです。ウイルスと細菌は違う。どう違うかというと、細菌というのはそこにあったら、自然に増殖していくことができるのだそうです。そこにあればその環境に応じて増殖していくことができる。ところがウイルスというのは単独では生きていけない、何かに依存しなければ滅んでしまうのだそうです。新型コロナウイルスがそうです。自分で増殖することができない。人間や他の動物など、何かに依存していく。その課程では、無症状や軽傷の方もおられますが、時に重症化し、あるいは時に死に至らしめてしまうという、そういう悪さもする。そのようなウイルスの姿を見ていて、ああ、自分も同じだな、という感覚ですね。私は親鸞さんの見つめた世界に近いものを感じました。他者に依存していないか、他者に依存しながら、その人を困らせていないか、あるいは深く傷つけていないか。人間ですから、自分が一番かわいいわけで、その自分がかわいいあまりに他者を踏みつけるということをしていないかと、しかもそういう自覚もなく、踏みつけるということをしていないかという、そういう私たちを照らす呼び声を感じる気がいたしました。

 

 

7 つらく苦しいことは不幸なことではなく

 考えてみれば、時間はたっぷりあったはずなのですが、私にとって一番はかどらなかったことは何かというと、今まで聞いてきた浄土真宗の教えをコツコツ本を読んだりして学び直すということが、実は一番おろそかになっていたのではないかというふうに、自分の歩みを振り返って思います。断捨離は結構はかどるのです。目に見えて綺麗になっていきますから。断捨離ははかどったのですが、自分が今まで何を聞いてきたのかという浄土真宗を学び直すとか、本を読み直すとか、今はネットの時代ですが、パソコンの前に座って法話動画で聞法をするとか、中々そういうことははかどりませんでした。
 けれどもたとえネットであっても、人様の前でお話をしなければならない瞬間というのはやってくるということがあって、自分が何を学び、何を伝えるべきなのか、何を受け取ってきたのかということを考えざるを得ないような機会を与えて頂いているということを、とても強く感じています。こういうことでもないと、今日もそうなのですが、資料も作りませんし、自分がどういう言葉に刺激を受けてきたのかということを整理して振り返る時間すら持たない、そういう怠け心を一杯抱えている私であったという、そういう再確認をさせて頂いたのです。
 その中で四番目の言葉を紹介したいと思います。 これは私のお寺にご法話に来られた伊藤元先生という先生が仰った言葉です。今から三年程前にお寺の報恩講に来られて私がメモを取って『真宗聖典』に挟んでおいたのです。こういう機会を与えて頂き、読み返した時に前に読んだときよりも熱いものがその言葉に宿っているという感覚を持ちました。それ以来何度か読み直しているところなのですが、今日はその言葉をご紹介しようと思います。 

 つらく苦しいことは不幸なことではなく
 それを通してのみ見えてくる世界がある (伊藤 元)

 今、つらさや苦しみが多くの人間を覆っている時を迎えました。私には子どもが三人おり全員20代です。うち二人はコロナの影響で仕事がなくなり家にいます。三番目は学生ですが、4月以来まだ一度も学校にいくことができない。だから本当にストレスが溜まって、家庭の中で上手くいかなくなる出来事も起こります。これは今のコロナの現実です。仕事がなくなるということも経済的には大変なことですが、「いらない」と言われたのです。「おまえはいらない」。事情はあるのですが「いらない」と。そういうことが当たり前に世の中に起こっていて、その中でつらさや苦しみを味わっている。私はどうすることもできません。そういう現実に身を置きながら、伊藤元先生という、私が本当に尊敬しているお坊さんですが、その方が三年も前におっしゃった言葉が今更ながら熱いメッセージとして響いてくる。「つらく苦しいことは不幸なことではなく それを通してのみ見えてくる世界がある」。辛く苦しいイコール不幸なことである、つまりなんて私は運が悪いのだろう、そこに落ち着くのが私たちの日頃の心ではないかと思うのですが、親鸞の教えに生きている、私より二回りも上で、とても元気のいい伊藤元先生は、それは不幸なことではないのだ、そこを通して世界に出会うのだ、そういう時なのだ、ということです。最初に紹介した一番目の言葉によく似ていると思いますが、そのことを通して、何かを発見し何かに出会っていく、こういう世界が仏法として私たちに伝えられていることをとても頼もしく思うところであります。

 

 

8 仏様のこころとは えらばず、きらわず、見すてず というこころ

 今、先を歩いている人の言葉をいくつか見てきたのですが、仏教は言葉の宗教であると言われる通り、言葉を通して仏さまの心を受け取り伝えてきたという歴史があります。次にご紹介する言葉が次の言葉です。これは私が初めて仏法に触れた京都にある大谷専修学院という学校の先生で、今はお亡くなりになられた竹中智秀先生という方が何度も何度も言っておられた言葉です。専修学院の卒業生にとっては耳にタコができるくらい聞いてきた言葉なのです。だから特段驚きもしなくなってしまった言葉なのですが、しかし、どういう状況で読むかということで、言葉の持つ色が変わってくるということがあると思うのです。今はコロナという時代になって、もう三十年も四十年前に聞いた言葉ですが、改めて大事なことを伝えていたのだと思います。こういう言葉です。

 仏さまのこころとは 
 えらばずきらわず見すてず というこころ (竹中智秀)               

 これは阿弥陀仏は衆生を摂取して捨てず、という経典の言葉とか、親鸞聖人の言葉が根拠となっていると思いますが、仏さまのこころというのは「えらばず きらわず 見すてず」というこころなのだと。今2020年コロナの時代を迎えて、私たちはどうなっているのか。感染者に対して「えらび」、会ったこともこともない人を近くに寄るなと言うことで「きらい」、そして「見すてる」。そのようなことが堂々と行われているのではないでしょうか。人を選んで、人を嫌って、人を見捨てていく。自分さえよければ、というこころ。今コロナという時代になって堂々とそのようなことが言えてしまえる側面も、私たちの世の中の偽らざる事実ではないかと思うわけです。そういう世の中に身を置いて、改めてかつては耳にタコができるぐらい聞いてきた言葉ですが、「えらばず きらわず 見すてず」という、そういう世界をこそ、人間というのは求めざるを得ない。そういう世界に出会うことによって初めて心を動かされるというか、大事な世界だという、仏さまからそういう感覚を私たちが頂いていくことが、今こそ待たれているのではないかと思います。「仏さまのこころとは えらばず きらわず 見すてずというこころ」。もう40年前に聞いた言葉ですが、今という時代に改めて私たちが出会うべき世界を、今は亡き竹中智秀先生が私たちに説いておられるのではないかと思います。「しっかり生きろよ、こういう世界があるんだぞ」、と。その世界に出会わないではいけないぞ、と。そういうメッセージなのではないかと思っています。

 

 

9 邪悪なウイルスに対抗できる免疫

 さて、最後の言葉を読んでいきたいと思います。             

 人類にはその邪悪なウイルスに対抗できる免疫が確かに備わっている
 邪悪なウイルスとは新型コロナウイルスではない
 差別や偏見というウイルスである (中日春秋2020.2.2)

 新型コロナウイルス、それは邪悪な存在ではないと。邪悪なのは差別や偏見というウイルスである。それは縁さえ熟せば、私たちの中からぽろりと出てくるもの。この文章が書かれたのは2月2日ですから、ダイヤモンドプリンセス号などの頃です。まだコロナが遠い存在であった頃ですが、その頃にこういう指摘をしていたのは鋭いことだと思います。
 その後から今日に至るまで、感染者やその家族や医療従事者に対する差別的な扱いが世の中に蔓延したのは記憶に新しいところです。感染の多い地域の人を遠ざけて差別することも起こってきました。すべては私たちが織りなしてきた私の事実であります。そのことに対しての免疫を、一人ひとりが確保すること。それがいま求められていることなのではないでしょうか。免疫を獲得するとは、自他の偏見差別を見抜いていくということ、それに飲み込まれて我を忘れることがないようにすることです。そのような歩みは全世界に散在する人類の共通の課題なのでしょう。

 

 

10 一人ひとりの地道な求道の歩みを

 今までいくつかの言葉を見てきましたが、浄土真宗は言葉の宗教ともいわれています。言葉そのものに教えのあたたかさや厳しさが宿り、あたたかさや厳しさを持った言葉がこの世を生きる人間を照らし、人間に届いていくのです。そして、教えの言葉に出会い、自分のすがたを知らされ、人間の課題に気が付き、自分の進むべき世界を教えていただくのです。こうして人間はひかりの言葉に照らされて今日まで歩み続けてきました。それがお念仏の歴史でもあります。
 いま世界はコロナという時代を迎え、人と人とが以前のように密に出会うということができにくくなってしまいました。しかし、念仏の歴史がここで途絶えたというわけではありません。この世に人間がいる限り、教えは人間を照らし続けていくのです。そして、面と向かって出会うことは、今はできませんが、それぞれの抱く苦しみや悲しみや辛さや孤独を通して、教えの暖かで時に厳しい言葉やその心に出会っていくということは、今の私たちにできることなのではないでしょうか。
 皆さんは、どのような言葉に出会ってきましたか。その中で何を感じ取って生きてきましたか。そのことを考え、確かめ、整理し、表現することは、今という時代でも私たちにできることではないでしょうか。しばらくはコロナの時代は続きそうですが、そのような一人ひとりの地道な求道の歩みを途切れさせることなく、続けていきたいと思います。
                                    

 

 

質疑応答

A お話ありがとうございます。四番の「つらく苦しいことは不幸なことではなく、それを通してのみ見えてくる世界がある」とありますが、見えてくる世界とは例えばどういう世界が見えてくるのでしょうか。—

酒井 私はいろいろなことが見えてくると思います。ここで伊藤先生が仰っているのは、「苦悩の有情をすてず」という親鸞聖人が出会った和讃がありますね。苦悩する有情を見すてない。苦悩を救うではなくて、苦悩している人を見捨てないという、そういう言葉があるのですが、それは苦しんで苦しんで、辛いところに身を置いていなければ見えてこないことがあると思うのです。誰も見向きもしてくれないではないかと。ところがそんな時に、苦悩するあなたを見捨てないという世界に出会ってきた、そういう念仏者の歴史があるのだと思います。だから苦悩している人間は不幸だと下を見るのではなく、その人間を捨てないという世界に出会って来た念仏の歴史、救いの歴史がある。苦しみを取ってあげるという救いでなくて、苦しむということに意味が与えられるということが、親鸞聖人の出会った世界だったのだったのではないかと思います。もっと具体的に言えば、例えばこの間、日曜日にテレビを見ておりまして、薬物で逮捕されたヤクザの方が主人公のドキュメンタリーがあったのです。その方の歩んできた歩みは「道を外していた」と本人が言っていたのですが、でもそれがあったからこそ、今厚生施設で自分と同じ「道を外した人」を放っておけないという、そういう一緒に生きようという。その人はキリスト教の信者となったのですが、キリストの世界に触れて、そして同じように道を踏み外した人と一緒に生きようという生き方をしている。非常に分りやすかったのですが、今まで自分が見えていなかった新しい世界とは、まったく別の世界ではなく、悲しみの向こう側にある、希望が見える世界なのではないかと思っています。

 

                                      了

 

※この「住職の法話―コロナの時代を親鸞と生きる」は、2020年(令和2年)10月26日に長野県で行われた真宗大谷派東京教区長野1組門徒会研修会での法話の前半部分に加筆訂正を加えたものです。後半の法話は「人間 この恐ろしきもの (住職の法話)」にあります。

 

 

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 ↑↑↑輪読会は都合により中止となりました↑↑↑
〇10月12日(土)13:30~ 樹心の会on
お話:岸木勉さん・松本維邦さん・住職
〇10月18日(金)10時~ おみがきのつどい
〇10月22日(火)~24日(木)真宗本廟奉仕団
講師:和田英昭さん(岐阜・照明寺住職)
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〇11月2日(土)14時・3日(日)12時~
親鸞につどう「報恩講法要」
講師:田中顕昭さん(九州教区西教寺住職)
内容:法要・法話・お斎
※on印はオンライン配信あり。事前申込制。********************
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◆動画「コロナの時代を親鸞と生きる」2021年6月

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◆動画『緊急生配信 浄土真宗法話』2020年3月

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