真宗 大谷派 存明寺

人間 この恐ろしきもの (住職の法話)

人間 この恐ろしきもの ―コロナとハンセン病ー (住職の法話)

 

                  酒井 義一(真宗大谷派存明寺住職)

 

 

 

 

 

 

 

 

1 人間としての輝きを生きた人がいる

 コロナとハンセン病ということをテーマにお話をさせていただきます。
 ご縁がありまして26才の時から30年以上、国立療養所多磨全生園(ハンセン病療養所)に通っております。その療養所の中には、浄土真宗の教えに生きている150人位の方々がおられました。かつてハンセン病を患った方々ですが、現在は完治されておられます。毎月二回親鸞聖人の教えを学ぶ聞法会が開かれていて、そこにお邪魔するようになりました。おこがましい話ですが、その方々を前にして親鸞聖人の教え、法話を担当する役になってしまったのです。けれども法話はできませんから、参考書を読んで意見発表のような形でぼそぼそっと話をする。その話を聞いておられた方が後で座談会をするのですが、座談会のほうがはるかに法話に近いという様子でした。自分が生きてきた歴史の中で親鸞聖人はこういうことを言ってくれた、というような話を聞くと、座談会のほうがはるかに法話でした。そういう状況で人々と出会ってきた訳です。
 その方々が生きてきた歴史は、過酷な差別と偏見を受けながら生きてきた歴史でもあると言えるのですが、同時にそれに負けずに抗してきた。負けずに人間としての誇りを抱きながら生きてきた歴史でもあると、とても強く思います。差別や偏見を受けてきた歴史でもあるのでしょうが、それに屈せずに人間としての誇りを失わずに生き抜いてきた。
 今は真宗の方でお寺にやってこられる方はたったの二人になってしまいました。あれから35年が経過し、平均年齢86才。たった二人になってしまいました。けれども言えることは、過酷な差別の中を人間としての輝きを失うことなく生きていた人たちがいたのだという、そして今もおられるのだという、それは私が教えて頂いたことで、けっして譲れないことです。
 今回のコロナウイルスとそのような歴史を持つハンセン病問題を同じようにして語ることはできないことかもしれません。時代も違いますし、状況も違いますから。ですから一緒に語ることはできないと思うのですが、ハンセン病の方々とお付き合いをしていく中で、今回のコロナウイルスのことでよく似ているということがあるのです。差別や偏見がポロッと出てくるという、その出方は本当によく似ていると思います。それをいくつか書き出してみたいと思います。

 

2 知らない

 まず最初は「知らない」ということです。ハンセン病もそうだったのですが、どういう病気なのか知らないのです。溶ける病気ではないかとか、遺伝病ではないかとか、怖い伝染病ではないかとか。間違った見方、それは知らないということ、自分の中で負の面が強調されて、その病気を見ていく、その人を見ていくということが、ハンセン病では露わになりました。
 コロナウイルスも同じであって、どういう病気なのかはまだよく分かっていないし、原因もわからず、ワクチンも開発されておりません。菌がどんどん変異していくとも言われています。よく分からないという。その時にポロッと間違った見方が出てきてしまう。今回もそうですし、ハンセン病問題もそうだと思います。

 

3 恐れる

 志村けんさんが2020年3月末に亡くなられました。あのことがかなり人々に影響を与えて、死に至るのだということで多くの方が恐れを感じたということがありました。恐れは身を守るという心の裏返しですから、だれもが好き好んで病気になろうとするわけはないので、守るということと同時に恐れていくという、つまり自己防衛本能が働くわけです。かかってもいいとは思わない、自分を守りたい。だからそういう病原菌を持っているのではないかと思われる人を避けていく。これはごくごく当然のことなのですが、避けるべきは本当はウイルスとか菌でなければならないのですが、人間を避けていくということが当然のようにして行われてしまうということが露わになったのも、ハンセン病問題と同様、今回のコロナウイルスの時もそうではなかったかと思います。恐れるということの裏側には、守るがあります。

 

4 守る             

 これは何も特殊な心ではなくて、常日頃私たちが持っている心です。自分を守る。そして守るが故に恐れるという。誰もが持っている心が時に暴発する。そういうことがあったのではないかと思います。
 私事ですが、この間能登に行くことになりました。2020年10月の半ばですが、能登のお寺の住職が、お寺に法話に来てくれ、ということで、私もこの時期に東京から行くのは心苦しいけれど良いのかと言ったら、来てくれということで、三日間能登に行ってきました。空港に迎えに来てくれて、住職が開口一番に言うには、石川県では感染者はまだ少ない、能登ではゼロなんだと。緊張が走りましたね(笑い)。これでもし私が感染させてしまったら、本当に顔向けできない、と。能登には三日間いたのですが、能登にいる御門徒の方と話す機会がありました。能登の皆さんが口々におっしゃっるのは「一番にはなりたくない」と。「もし感染したら、すぐに分かる。この地にいれなくなってしまう」ということでした。だから余計に恐れる。
 そのようなお話を聞きながら、これはそんなに特別なことではないと思いました。その心は暴発しやすい心なのではないかということも思います。もしも怪しい人がいたらうつりたくない、守る、という心で、あっちへ行って、と言ってしまうのも私たち人間の偽らざる姿なのではないかと思います。自分のこととして思います。恐れるとか守るということは何ら特別な思いではないのですが、時に鋭い刃になってしまうことがあると思います。
 それから、 ひとくくりです。

 

5 ひとくくり

 「ハンセン病患者たち」とか、「新型コロナウイルスの感染者の人たち」とか。実際にその人がどういう生き方をして、どういう歩みをしてきた人なのかを一切飛び越えて、どこかにハンセン病の人たちが集団でいるという、そのようにひとくくりにしたイメージで人々を見ると、人間は自分の中にあるイメージでその人たちを推し量っていく、差別していく、ということがよくあるのではないかと思います。
 ハンセン病問題の中でいろいろな差別事件があるのですが、宿泊拒否差別事件というものが2003年にありました。元患者の方々がある温泉旅館に宿泊に行くことになりました。そうしたら予約してあったホテルから宿泊を断る、来ないでください、ということがあり、大きな事件になりました。ホテルの言い分は「私たちホテルの人間は良いけれども、一般のお客さんがびっくりするから」という理由だったのです。想像してみて頂きたいのですが、ホテルの中で湯船につかった時に、ハンセン病だったというイメージを持つ人たちがどっと入浴してくる光景を思い浮かべるのではないかと思います。なんか怖いのではないか。手足などの後遺症という、そういう外見的なことで怖いのではないかとか、うつるのではないかと、なんとなくそういうイメージが自分の中で出来上がって、怖いという思いが出てくることもあるのではないかと思います。
 ですがハンセン病というくくり方ではその人を言い表すことにならないのです。多くの方々は病気は完治していますし、後遺症で手足の変形があったとしても、私たちと同じように名前を持っていて、お酒を飲むのが好きな人もいるし、旅行が好きな人もいる。そしてみんなで仲良くなってどこか温泉旅行に行こうかと考えることはごくごく普通のことです。その人たちが温泉に入って交流を深めるということも当然のことじゃないですか。ところが「〇〇の人たち」という感じで、その人たちのことを実際には良く知らないで、何となくイメージでそういうひとくくりにしたグループを作っていくと、元々あった自分の中の差別や偏見の心がポロッと出てきてしまう。
 これは人間がずーっと繰り返してきたことなのではないかと思います。今でもそうです。例えばどこかの国会議員が「子どもを産まない女性は非生産的だ」という話をしました。「子どもを産まない女性」というくくりの中に、非生産的だという自分勝手な思い込みが出てくるわけです。けれどもあの言葉を丁寧に見ていくと、子どもを生まない女性というくくりの中にはいろいろな人が含まれて、苦しみもあれば葛藤もあるかもしれませんが、いろいろなものを生産しているはずです。一人ひとりを見れば、一人ひとりに出会えば。生産ということで見れば、人間と人間を繋ぐという生産性もあるし、何か新しい視点を持ってという生産性もあるかも知れません。生産性とは多様なことなんですね。けれどもそういうことを見ないでひとくくりにしていった時に、「子どもを産まない女性は非生産的だ」という偏見に満ちた言葉を言ってしまえるのです。
 これは大谷派の中で問題になった差別発言ですが、閉鎖的な集団だということを表現する時に、「まるで被差別部落みたいだ」と言いました。これもひとくくりにするときにポロッとそういう言葉が出てしまう。ですから人間の中から差別が出てくる、人間を人間として見ないような言葉が出てくるのは、だいたいいくつかのパターンがある。共通していることは、

 

 

6 出会いがない             

ということに尽きるのではないかと思います。「出会いがない」。本当にひとりの道を求める人間として出会い、その方の生きる苦しみを聞く、悩みを聞く、そして同じように仏さまの教えに照らされている者としてその方に出会っていく、それがないんだと。薄っぺらなイメージで、守るというイメージで人間を平気で貶めていく。そういうことが起こっているのがかつてのハンセン病問題であり、今のコロナという時代ではないかと思っています。だからコロナという時代を、人間を照らす教えに出会う時にしていくことが願われているのではないかと思います。
 これは蓮如上人の書かれた『御文』二帖目十三通、『真宗聖典』792ページの前から5行目にある言葉です。

 この光明(こうみょう)の縁(えん)にあいたてまつらずは、無始よりこのかたの、無明業障(むみょうごっしょう)のおそろしき病(やまい)のなおるということは、さらにもって、あるべからざるものなり。

 「この光明の縁にあいたてまつらずは」、私を照らす光に出会わなければ、「無始よりこのかたの、無明業障のおそろしき病」、昔からずっとある無明業障ですから、今の言葉で言えば、偏見差別ということもできます。業障とはさわりとか業であります。無明というのは明かりがない、人がいるということも見えなくなる。真っ暗な闇にいて人も見えない、光も見えない。そういう病が治るということはないぞ、という蓮如上人からのメッセージだと思っています。
 実は人間は恐ろしい病にかかっている。これはウイルスということではなくて、人間と出会えない、人間が見えない、人間を差別するという恐ろしい病にかかっている。光に照らされることがなければ、その病が癒えるということは起こりえないのだと。光に出会わなければ病が見えない。光に出会って、病が治っていくんだという言葉ですが、今のコロナの現実を通して考えてみると、コロナという現実を通して私たちの中の無明業障と言われているような病が見えてきた。ここを照らす光を仰いでいこう、ということではないかと思う次第であります。

 

 

7 さいごに

 評論家の芹沢修介さんという方と4日程前にお会いしまして、いろいろなお話をしている中でとても印象に残っていることがありましたので、最後にそれを紹介したいと思います。
 「ソーシャルディスタンスということが突如私たちの日常に当たり前のようにやってきて、あたかもそれが正しいことのように言われている世の中になりましたけれども、やはりあの言葉とたたかわなければいけない」、と芹沢さんは仰っていました。どういうことかと言いますと、人と人との距離を、今日もそうですが、これはワクチンが出来るまで仕方がないことなのかもしれませんが、人間は2メートル以上離れるということを受け入れられないはずです。もっと人と人が密に出会って、密に言葉を交わして、そういう事がないと、人間というのは求める心とか、触れあう心とかが枯れていくのではないかと思います。
 今は感染が拡大している途中かもしれないので、きちんとこのようなパーティションなどが必要なのですけれども、やはり人間は深く密ということを大切にしてきた。その中でいろいろなことを伝えあって、大事にしあって、出会いあってきた。そのことをソーシャルディスタンスに奪われてはいけないという、そういう風に思います。
 私も浄土真宗の教えを聞き始めて40年になりますが、忘れられない出会いとか、忘れられない人や言葉というのは、ソーシャルディスタンス越しにやって来たことなんてないです。身近な人にぼそっと言われたこととか、そこにいてもいいんだよという雰囲気とか。いろいろな方法で浄土真宗の世界を教えていただいた気がします。今はソーシャルディスタンスが正しいという、従わなければならないことになっていますが、ソーシャルディスタンスにひれ伏す必要はない。密を避ける工夫は必要です。だけど工夫を凝らして密に出会うということです。諦めないで追求していきたい、と思います。
 これで私からのお話を終わらせていただきます。             

 

                                     了

 

 

※この「住職の法話―コロナとハンセン病」は、2020年(令和2年)10月26日に長野県で行われた真宗大谷派東京教区長野1組門徒会研修会での法話の後半部分に加筆訂正を加えたものです。前半の法話は「コロナの時代を親鸞と生きる (住職の法話)」にあります。

 

 

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