2018年相続講員物故者追弔会兼帰敬式受式物故者追弔会の法話
2018年4月3日(火)真宗本廟「御影堂」
お 話 酒井 義一(東京教区 存明寺住職)
はじめに
はじめにパーリ語による三帰依文を唱和します。パーリ語といいますのは、お釈迦様がご在世だった頃に実際に使っておられた言語と言われています。全世界に散在する仏教徒の共通の言語です。三帰依といいますのは、三つの誓いです。仏さま、その教え、教えを本質的に求めざるを得ない人間の三つに、敬いを捧げますという仏教徒の誓いを、皆さんと一緒に行いたいと思います。
ブッダーン サラナーン ガッチャーミー
ダンマーン サラナーン ガッチャーミー
サンガーン サラナーン ガッチャーミー
2018年の相続講員(そうぞくこういん)物故者追弔会(ついちょうえ)、そして帰敬式受式(ききょうしきじゅしき)物故者追弔会に、皆さまようこそご参詣いただきました。今日ここには非常にたくさんの方々がご参詣であります。それぞれに皆違いを持ってここに集まっておられます。名前も違う、年齢も違う、お顔も違う。住んでいるところも違います。それぞれが歩んできた歴史にも違いがあることでしょう。
しかし、同じこともあります。それは、この一年の間に大切な方を亡くされたという経験をお持ちの方々という一点です。住んでいるところも違うし、歩みも違いますが、大切な方を亡くされた経験をお持ちの方々が、本日ここにこうしてご参集になられたわけであります。
人は皆誰もが遺言をのこす
ここでご一緒に一つの言葉を味わってみたいと思います。それは、「人は皆誰もが遺言(ゆいごん)をのこす」という言葉です。人がこの世を去っていく時に、皆誰もが必ず遺言をのこしていくということです。遺言といいましても、いわゆる遺言状という形で文章でのこしていく方もおられますが、もちろんそればかりではありません。文章にはなっていない遺言をのこすということもあるのです。言葉なき言葉、声なき声で遺言をのこすという場合もあるのだと思います。
私の父は今からおよそ20年前にこの世を去っていきました。末期の癌であるということが分かり、お医者さんからあと3か月のいのちという宣告を受けました。その日から、やがて来るであろう父親の死ということを意識して生活が始まりました。宣告からちょう3カ月目の早朝、その日の当番は私と弟でした。共に僧侶をしています。タンがのどに絡み、看護師さが吸引をし、とても苦しそうでした。その後、父親はもがき苦しみながらその生涯を終えていきました。「眠るように静かに」とはよく聞く言葉ですが、とてもそのようなものではありませんでした。唸(うな)りながら、苦しみながら、壮絶な形でこの世を去っていったのでした。その時の光景は今も脳裏に焼き付いています。
その日の午後のことです。私の尊敬するご住職で、私のお仲人さんが弔問に来てくださいました。そしてこう言われたのです。「ここのお父さんは説教臭いことは一切言わなかったけれども、人生の最後に「人間が死ぬということはこういうことだ、よく見とけよ」と体を張って語っていったな」と。その言葉を聞いた時、私は本当にその通りだと思いました。泣けてきました。涙が止まらなくなり、どうしようもありませんでした。父はいわゆる遺言状はのこしませんでした。そして言葉でも「お寺を頼むぞ」などの気のきいたことは一言も語りませんでした。では遺言はのこさなかったのかというと、私はそうは思えませんでした。人間が死ぬということを、父は言葉ではなく体で語っていったのだと強くそう感じました。
「お前も死ぬぞ」「やがて終わっていくいのちを本当に大切に生きているのか」まるでそのように父親から問われているような気がしました。言葉で語られる遺言も大きなものですが、声なき声という遺言も時には大きなものとなるのではないでしょうか。
皆さんは大切な人からどのような遺言を受け取りましたでしょうか?そのことを我がこととして確かめ、そして私がきちんと亡き人からの遺言を受け取めていくこと、そのことが残されたものの大きなつとめなのではないでしょうか。
悲しみにはすがたがある
さて話は少し変わりますが、私は自坊のお寺で10年ほど前から「グリーフケアのつどい」というものを行なっております。グリーフケアのつどいとは、大切な方を亡くされた経験を持つ人々の集まりです。その中で多くの方々と出会い、生の声を聞かせていただいてきました。今日ここでお話をしたいことは、「悲しみにはすがたがある」ということです。これはグリーフケアの動きの中で学んだことであり、多くの人々と出会う中で確かめてきたことでもあります。大きく分けて心で感じる悲しみ、体で感じる悲しみ。行ないで感じる悲しみに分けることができるかと思います。
まず、心で感じる悲しみは、例えば不安。この先自分はどうなるのだろうという不安です。または孤独。ひとりぼっちになってしまったという孤独。または空しさ。なぜか空しいという感覚。または怒り。怒りは他者に向かえば悪いのはあの人ではないかということになります。それが自らに向かうと自責(じせき)の念ということになります。自分を責めるのです。それから罪悪感(ざいあくかん)。自らに対して罪の意識を感じるのです。そして後悔。あの時もっとこうしておけばとか、あの時なんであんなことを言ってしまったのだろうという後悔。それから悲しみを感じないというすがた。あまりにもショックなことなので、感覚がマヒしてしまい、悲しみそのものを感じないという悲しみがあるというのです。それから安堵(あんど)。大切な方が亡くなられたのになぜかほっとしてしまうというすがた。長い間の介護の日々があったからでしょうか、ほっと安堵してしまうということ、でもこれも悲しみのすがただということを学びました。
次は体で感じる悲しみです。それは例えば不眠。夜なかなか眠ることができない、すぐに目が覚めてしまう。睡眠不足は辛いことです。また例えば食欲不振。単に食欲がないという場合もありますが、生前に一緒に食べた好きだった物など、自分だけがそれを食べてよいのだろうかと思い、食欲がなくなってしまうということもあります。それから体調不良。それも大変辛くてしんどいことです。
最後は行いで感じる悲しみです。たとえば引きこもり。春は桜が咲き、華やかな雰囲気が街に広がります。街は幸せそうな人々で溢(あふ)れます。その光景が耐えられず、人と会いたくないという形で引きこもるということ、これは体で表現される悲しみなのでしょう。それから悲しみ比べ。本来比べることができないはずの悲しみを、人間は比べてしまうというのです。そして、あの人よりは私の方がまだましだといって自分を納得させたり、私の方が悲しみが深いといって人を低く見たり、その結果として人々と共感をすることができない世界を作り出してしまうのです。そして悪者探し。納得できない出来事に遭遇した時に、一体誰が悪かったのかということを人は考えてしまうというのです。そして多くの場合、その悪を自分以外の外側に見つけ出そうとします。あの人が悪いという形で人間関係にひびが入ってしまうということも起こりうることではないでしょうか。
今、心で感じる悲しみ、体で感じる悲しみ、行いで感じる悲しみをご一緒に振り返ってみましたが、皆さんいかがでしょうか。思い当たること、あてはまることはないでしょうか。大切な方を亡くした時に、実は私たち人間は悲しみを感じることができる力を与えられているのです。力を与えられている。そして、その悲しみには、いろいろなすがたがあるというのです。
ここで今私が一番申しあげたいことは、何もそれらのことは異常なことではないということです。大切な方を亡くしたことがある誰もが感じる正常な反応なのだということです。悲しみを感じることのできる存在、それが人間。親鸞聖人はそのような人間を、自覚をもって「凡夫(ぼんぶ)」と表現されました。
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火(しいか)二河のたとえにあらわれたり。 (一念多念文意 545)
親鸞聖人はこれでもかというぐらいに凡夫のすがたを言い当てておられます。しかし、だから人間はダメなのだと言っているのではありません。凡夫だからこそ、その凡夫を照らし続ける光に出会うことができるのだというのです。凡夫だからこそ本願に出会うことができるのだという世界が、親鸞聖人の出遇われた世界なのではないでしょうか。
人はさまざまなすがたの悲しみを抱く。そして凡夫はいろいろな煩悩を抱く。しかし、そのような悲しみや煩悩こそを大きなきっかけとして、あたたかな教えの世界に出会ってきた歴史が届けられているのです。そのことを皆さんとご一緒に確認したいと思っています。
大切にしたい三つのこと
さて、最後になりますが、大切な方を亡くした人が、これからの歩みの中で大切にしていきたいことを三つ、ご一緒に確かめていきたいと思います。
まずひとつ目は、「自分の思いを自分の言葉にする」ということです。私の中に浮かぶその人へのさまざまな思いを、自分の言葉にして表現してみましょう。それは、例えば「ありがとう」「感謝しています」という言葉かもしれません。または「ごめんなさい」「あなたの死を無駄にはしない」という言葉かもしれません。もっと長い言葉になるかもしれません。自分の思いを自分の言葉にして表現していくということ。それは亡き人と対話をするということ、そしてそれは自分自身と対話をするということに通じるのではないでしょうか。自分の思いを自分の言葉にしていくということを大切にしたいものです。
ふたつ目は、「死を自分のこととして受け止めてみる」ということです。私たちはみな誰もが限りあるいのちを生きています。いつか終わっていくいのちを生きているのです。しかし、普段はそのことをなるべく見ないようにして生きています。そのような私たちに、亡き人は声なき声で、「いつか終わるいのちをどう生きていくのか」「限りあるいのちをどうか大切に生きてほしい」と呼びかけているのではないでしょうか。死を人ごととはせずに、死を自分のこととして受け止めてみるということを大切にしたいものです。
みっつ目は、「亡き人とふたたび出遇い直す」ということです。生身のすがたの亡き人と出遇うということは不可能なことです。しかし、亡き人はたくさんの言葉や笑顔などを残されました。それらは、そう簡単に死んだりはしません。その人が確かにこの世に生きていたという事実は、誰も消すことができないのです。その人ののこした言葉、その人の笑顔、その人の悲しみ、その人の願い、その人の存在、その人の面影を思い起こし、今を生きる私が亡き人とふたたび出遇い直していくということを大切にしたいものです。
自分の思いを自分の言葉にするということ。死を自分のこととして受け止めてみるということ。亡き人とふたたび出遇い直すということ。それら3つのことを、大切に、そして丁寧に、実践していきたいものです。
宗祖としての親鸞聖人に出遇う
2011年に行われた親鸞聖人の750回御遠忌(ごえんき)法要の基本理念は「宗祖としての親鸞聖人に出遇う」という言葉でした。もちろん親鸞聖人はもうすでにお亡くなりになられた方ですから、生身のお姿でその方とふたたび出遇うということはできません。それは不可能なことです。しかし、親鸞聖人はたくさんの言葉をのこされました。その言葉の中に今も生きてはたらき続けている親鸞聖人がおられます。濃い霧の中にさまよい、戸惑い、震えながら生きている私たちに、言葉があたたかさをもって届けられ、人を包み込み、立ち上がらせて、歩み出させるかのごとくに、です。言葉となって今も生きてはたらき続けている、そのような親鸞聖人に出遇うということが、私たち真宗門徒の基本的な願いなのだということでしょう。言葉を変えれば、今は亡きその人とふたたび出遇い直すということです。そしてそれは同時に、言葉の背後にあるあたたかくて広い教えの世界に出遇うことでもあります。一人ひとりがさまざまな問題を抱えながらも、そのような世界へ歩んでいくことを大切にしていきたいと思っています。
これでお話を終わらせていただきます。本日はようこそお参りくださいました。
(おしまい)
※当日はお話の内容を録音していませんでしたので、この法話録は、当日のレジメを元になるべく忠実に再現したものです。文責は存明寺にあります。