真宗 大谷派 存明寺

最新 コロナの時代を親鸞と生きる (住職の法話)

最新 コロナの時代を親鸞と生きる (住職の法話)

 

          高岡教区報恩講法要での法話
          2021(令和3)年5月29日 於 城端別院(富山県南南砺市)

 

  お話 酒井義一(真宗大谷派 存明寺住職)

 
   
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【高岡教区報恩講法要への事前のメッセージより】

 コロナという時代がこんなに長く続くとは思ってもいませんでした。生活は一変し、今までの日常が消えました。
 不安や生きづらさ、孤独や悲しみに、ふと襲われることもあります。このような状況の中、何を大切に生きていくのかが、ただひたすらに問われ続けています。
 そんな自粛生活の中で、新しく見えてきたこともありました。ドキリとする言葉との出遇いもありました。
 それらのことを通して「コロナという時代を親鸞と生きる」というテーマで、今の自分を表現してみたいと思います。
           (2021年5月 皐月 酒井義一)

 

 ※法話全文を掲載します。趣旨をかえずに文章を校正しています。
 ※高岡教区YouTubeチャンネルなどでも公開中です。
    https://www.youtube.com/watch?v=Jx9JG2dWof0&t=549s

 

 

 

■様変わりした日常
 はじめに三帰依文を唱和したいと思います。パーリ語による三帰依文です。ご唱和をお願いいたします。

Buddhaṃ(ブッダン) saraṇaṃ(サラナン) gacchāmi(ガッチャ-ミ)
Dhammaṃ(ダンマン) saraṇaṃ(サラナン) gacchāmi(ガッチャーミ)
Saṅghaṃ(サンガン) saraṇaṃ(サラナン) gacchāmi(ガッチャーミ)

 皆さんこんにちは。酒井と申します。先程、竹部教区会議長さんのご挨拶にありましたが、今回の高岡教区の報恩講を勤めるにあたって、事前の会議を行った、その裏話ということで、「コロナの感染が拡大しているから報恩講をやめようという意見はひとつもなかった。それどころか、なんとか工夫をして親鸞聖人の報恩講を勤められないものかという雰囲気に満ち満ちていた、そして今回、できる限りのことを尽くして、こうして報恩講が勤まった」というお話がございました。

 私の方からも少し裏話をご紹介いたしますと、今日で接続するのは四回目であります。過去三回接続テストを行い、音声のチェック、動画のチェックなどを行ってきました。そういう意味で改めて申し上げます。高岡教区の親鸞聖人に出遇(であ)う報恩講を勤めるのだというお志に対し、そしてそれに参詣するのだというお一人おひとりのお志に対し、心からの敬意を表したいと思います。

 私は今、東京の世田谷にある自坊におります。去年の二月二十二日、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、お寺のこども会が中止になりました。以来、一年三か月が経ったわけですが、生活は本当にガラリと様変わりをしてしまいました。それまで私は、あちらこちらにちょこちょこと出没をしていたのですが、現在は東京から出るということはほとんどありません。といいますのも、やはり東京は感染者が非常に多いですし、現在、三回目の緊急事態宣言中であります。ほとんど毎日お寺におり、自粛生活を行っております。感覚的に申しますと、門のすぐそこまでコロナウイルスが来ている、いつ感染してもおかしくないと。こんな危機感を感じながら生活をしています。そして様変わりしたこの日常の風景、日本の風景、世界の状況を見るにつけ、本当にいつまでこれが続くのかという先が見えない不安、あるいはこの先日本や世界はどうなっていくのか、お寺という世界はどうなっていくのか、そういう危機感のようなものを感じながら毎日を過ごしています。

 しかし、実はそれだけではありません。やはり一年三か月という長い期間自粛生活が続いている中、最初は辛かったのですが、やはり人間、この生活に慣れてきてしまうということがあります。ただただ平凡な毎日、ダラダラと「空過(くうか)」という言葉がぴったりくるような毎日を実は過ごしているというのが正直なところです。危機感もあるがダラダラと毎日を過ごしてしまっている、そのような自分を感じています。

 

 

■親鸞と生きる

 本日、テーマを出させていただきましたが、そのテーマはこういう言葉であります。

「コロナの時代を親鸞と生きる」

 今日はいくつかの言葉を掲げながらお話をさせていただきたいと思っています。「コロナの時代を親鸞と生きる」という題を掲げたのですが、これはより正確にいうと、「コロナの時代を親鸞と生きよ」と、このように私たちはいろいろな世界から呼び掛けられているのではないかということを最初に思います。

 浄土真宗の教えを学びはじめて四十年ほど経つのですが、この一年三か月の間、私にまで浄土真宗の教えを届けてくださった今は亡き先輩たちのことを時折思い起こすことがありました。先輩たちはこの時代社会の課題をとおして、親鸞と生きるということはこういうことだということを、私に見せてくれたということをとても強く感じています。もちろんお名前も思い出します。あの人がおられた、この人もおられた。いろいろな形で時代社会の問題を抱えながら、親鸞と生きるということはこういうことだということを、背中をとおして私に伝えてくださった。その方々が、今コロナという時代を迎えたが、様々な困難なことはあるだろうが、この時代を親鸞と生きよと、こう私たちに呼びかけてくださっているのではないかということを思いました。そして、この題にさせていただいたわけであります。

 コロナの時代を親鸞と生きるということですが、厳密に言葉を言い換えてみれば、コロナという時代の中にあって親鸞が見出して歩いた道をあなたも生きよと。あるいは親鸞が出遇ったものにあなたも出遇いなさいと。このような呼びかけの言葉として、私には響いてくるような気がしております。それで今日はこの「コロナの時代を親鸞と生きる」というテーマに沿って、四つの言葉を手掛かりに、今自分が感じていることを表現させていただきたいと思います。

 

 

■悪世に光る本願

 最初の言葉は、今年の五月に出遇った言葉です。滋賀県の仲間の住職が寺報を送ってくれました。その寺報の中に「今月の掲示板の言葉」ということで、この言葉があったのです。ちょっと読んでみたいと思います。

 

 世の中が悪世であればあるほど
 本願は光ってくるのです

 

 この言葉に触れた時に、本当にズシンと胸に響いたものがありました。この言葉を発したのは仲野良俊(なかのりょうしゅん)先生で、大谷派の教学研究所長まで務められた親鸞の教えに熱く生きられた方です。今から三十年以上前にお亡くなりになられました。しかし、その方がおっしゃった言葉は三十年という時を超えて、今コロナの時代に生きている私の元にズシンという響きとともに、そして何ともいえない温かさを持って伝わってくる気がしました。早速滋賀県のお寺の住職に電話をしまして、この言葉はすごい言葉だと、その前後をぜひ知りたいというふうに伝えたところ、その住職もまるで今の時代を知っているかのような言葉だったということで、その全文を教えていただきました。ちょっと読んでみたいと思います。この言葉は正信偈の源空章の中の「選択本願弘悪世」という言葉を解説された講義の言葉です。法然上人は本願をこの悪世に弘められたということをおっしゃっている部分です。

 

 選択本願悪世に弘む、世の中が悪世であればあるほど本願は光ってくるのです。
 世の中が治まっていても治まっていなくても大事なものが本願ですけれども、
 悪世であればあるほど本願は光ってくる。
 人間がどこについていいのかわからない、
  何に従っていいのかわからない時に初めて本願が一番の頼りになる
                 (仲野良俊)

 

 こういう言葉が書かれているものを読ませていただきました。悪世というのはいったいどういうことなのでしょうか。仏教では「五濁悪世(ごじょくあくせ)」という言葉がありますが、悪世の具体的内容を濁(にご)りという言葉で表現しています。濁り、濁っているから先が見えない。一つひとつの言葉の解説は、今日はできませんが、例えば生きる喜びが見出せない。例えば自分こそが正しいと、正しさを自分に付けて、周りをすべて悪者にしてしまう。例えば他者が見えない。例えば誰もが幸せを願ってこの世を生きている。しかし、どうしたらその幸せが手に入るのかが見えず、思い通りにならない現実に苦しんでいる。こういうような濁り。

 いかがでしょうか。私はこの「五濁悪世」という言葉を今読み返してみた時に、まさに新型コロナウイルスの感染という私たちが直面している世の中というのは、濁りある世、悪世ということがいえるのではないか。そんなことを、とても強く感じました。そして「悪世だからこれはしょうがない、聞法どころではない」と、こうなるのが普通なのかもしれませんが、私にズシンと響いたのは、悪世であれば悪世であるほど光り輝くものがあるということを堂々と表現されている方がおられたからです。

 

 

■本願に出遇う歩み

 それは本願だと。悪世が深まれば深まるほど、本願が光り輝いていくと。だから、この言葉を、今風の言葉で表現してみれば、私はこういう言葉になるのではないかと思います。「このような時代だからこそ、人間を照らし続ける教えに出遇う歩みを」。このような時だから、聞法・聴聞をあきらめておこうではなく、このような時だからこそ、本当に、あくことなく人間を照らし続ける本願、光、教えに出遇う。そういう歩みをどうか大事にしてほしい。こういうふうに私たちは、呼びかけられているのではないかということを思う次第であります。

 ちなみに、この仲野良俊先生の先ほどの言葉ですが、その言葉の先には、親鸞聖人が説かれた正信偈の世界があります。「選択本願弘悪世」。しかし、その悪世に本願を弘めたのは、師匠の法然上人であります。ですから、法然上人から親鸞聖人、親鸞聖人から幾多の方々を通して仲野先生に伝わり、そして仲野先生から三十年という時を超えて、今を生きる私や、滋賀の住職、他の方々に弘めてくださった、ということを強く思います。このような時だからこそ、光に出遇う歩み、教えに出遇う歩み、光り輝く本願に出遇う歩みを大切にしてほしい。私たちはそう呼びかけられているのではないでしょうか。

 

 

■私の中にある蛇蠍の心

 二つ目の言葉は親鸞聖人の言葉です。『愚禿(ぐとく)悲歎(ひたん)述懐(じゅっかい)和讃』の中にある言葉です。

 

 悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆえに
 虚仮の行とぞなづけたる
  『真宗聖典』508ページ

 

 こういうご和讃があります。蛇とはヘビです。蝎はサソリです。私の心はまるでヘビやサソリのようなものだ。こういうふうに親鸞聖人は、痛みを持って自らを告白されておられます。ヘビやサソリはどういう生き物なのかということをここで一緒に確かめてみたいと思います。ヘビもサソリも人間を襲ってやろうと思って生きているわけではないのです。ヘビもサソリも、自分の与えられた環境で一生懸命生きている。ところが、ヘビもサソリも、身に危険を感じた時に、自分の身を守ろうとして、音をたてたり、あるいは毒を持つ牙で相手を噛んだり、あるいは、毒がある尻尾で相手を刺したりする。これは、自分の身を守るために、そういう武器を身につけている、こういうふうに言うことができると思います。ですから、なんでもない時には、いいのです。一緒にいることができる。ところが、踏みつけられそうになるとか、身に危険を感じた時に、相手を敵とみなし、そしてそのものを攻撃していくのです。これが、「蛇蝎のごとくなり」という心なのではないかと思います。

 今の時代に目を向けてみると、新型コロナウイルスの感染が拡大してから、様々な人間の心がかたちとなって現れてくるということが起きました。自粛ということが言われ、感染拡大を防ぐ為には自粛が正しいと、それに従わない、ルールを守らないお店や人々に対して、それをとがめる、あるいは批判をするという「自粛警察」という言葉が生まれました。今自分は正しいことをしている、自分の身を守るために。しかしその結果、他者を踏みつけにしているということが問題になりました。
 あるいは、新型コロナウイルスの感染者や、感染者の家族、あるいは医療従事者に対して心ない言葉を浴びせたり、「あっちに行け」と向こうに追いやったり、嫌い、選んで、捨てるような言動、偏見、差別が、あちらこちらで顕(あきら)かになりました。

 普段はいいのです。いいのですが、自分も感染してしまうのではないか、という身の危険を感じた時、自分の中に元々あった蛇蝎のような心が、かたちをとって現われてくる、というふうに受け止めるべきではないでしょうか。そのようなことを思うわけです。
 私の中に元々あった蛇蝎のような心が、新型コロナウイルスを縁に、現われてきた。守りたいですから、怖いですから。自分の身を守るために、言葉や態度、意識でもって、相手を攻撃していくという。そして時には、深い傷を負わせたり、死に追いやってしまったりすることさえあるのではないかということを思います。

 

 

■善としてあらわれる雑毒

 ちなみに親鸞聖人は、この和讃の中で「雑毒」という言葉をおっしゃっておられます。「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」「雑毒」というのは、雑多な毒ということです。「雑毒の善」という言葉もあります。いろいろな毒があるのに、善というかたちをとってあらわれてくる。こう受け止めていいかと思います。いろいろな雑多な毒が中にあるけれども、外にあらわれてくる時は善というかたちをとってあらわれてくる。自粛を守らなければいけないよ、感染拡大するよと、善というかたちをとりながら、自分の中にある雑多な悪、雑多な毒が他者に対して向かっていく。こういうことが、今、現に、あちらこちらで見え隠れしているのではないでしょうか。しかも、大した痛みも感じずに。

 宗祖は、そのようなことを「悲歎述懐」ですから、悲しみ歎(なげ)き、痛んだ。私はここがとても大事なところではないかと思っています。身を守るのは当然だ、といったのではなくて、自らの心を誤魔化さずに見つめた。それは同時に、その心を照らす光に出遇ったからでしょう。そして、見つめて、それを痛ましいことだ、悲しいことだというふうに受け止めた親鸞聖人の生き様ということです。今、このような時だからこそ大事にしていきたいと思います。

 それで、この二番目の言葉で、本当に申し上げたかったことは、こういうことであります。自分の身を守るために他者を見失ってはいないか。自分一人を守るため、あるいは自分に繋がる特定の人を守るために、他者を足蹴にしたり、見失ったりしてはいないだろうか、ということが、この時代社会や親鸞聖人から、私たちが問われ、願われているのではないかと思います。

 

 

■お寺の現状

 さて、三つ目の言葉なのですが、『仏説(ぶっせつ)無量寿経(むりょうじゅきょう)』の中にある言葉をみていきたいと思います。

 

 道を求めて止(や)まざること
  『真宗聖典』14ページ

 

 東京のお寺は本当に風景が一変してしまいました。法事をつとめるという人はあまりおられない状況です。新型コロナウイルスの感染が拡大しておりますので、自粛するということで、日曜日は、以前だったら二件、三件、四件とお寺に皆さん集まってきて法事をつとめるということが普通の光景だったのですが、今は法事がゼロという日曜日がそう珍しくないような状況です。それから葬儀ということも、枕経、通夜、そして葬儀という形態が、この一年三ヶ月、まったくなくなってしまいました。増えたのは、一日葬。しかも、もっと増えたのは、直葬(じきそう)。火葬場に行って、お棺の前で短い御経をあげ、収骨までご一緒するという形態のお葬式です。 

 儀式の簡略化は以前から問題になっておりましたが、コロナで一気に加速したという感じです。ですからお寺の経済ということを考えても、法事がなくなり、お葬式は簡略化されていくということで、お寺の収入もかなり減っております。これはお寺だけでなく旅行業とか宿泊業とか飲食業とかいろいろな分野の方々が経済的に困窮しているということがあるわけですが、お寺の住職をしている私もそのことを感じています。いずれお寺の仕事だけでは生活ができない世の中がやってくると。たとえば、平日は仕事をして、土曜日や日曜日に法事や聞法会をしていくという時代がきてしまうのではないかと感じています。

 それで、ひょっとしたらですが、お寺が淘汰されていく、潰れていくということも起こり得るのではないかということも感じることがあります。ですからどうしたらお寺が必要な存在になり続けていられるのかということを、やはり考えざるを得ないようなところに身を置いております。これは全国的にそうだと思うのですが。それで私はその時に何か新たな事業をと、たとえば墓地造成事業を行なうとか、納骨堂を作るとか、新たな法事のスタイルを模索するとか、それぞれいろいろなアイデアがあっていいと思うのですが、やはり基本は道を求めて止まない精神をどれだけお寺が表現できるかということにかかっているのではないかということを思います。道を求めて止まないという。どれだけそのことを実践できるかということを思うわけです。

 

 

■法蔵魂とは

 そこで、この「道を求めて止まず」という言葉は『大無量寿経』の中にある言葉でありまして『真宗聖典』でいいますと14ページになるのですが、こういう展開から出てくるのですね。法蔵菩薩、阿弥陀如来の因位の法蔵菩薩と、その法蔵菩薩に影響を与えた世自在王仏との対話ということがこの中に出てきまして、先程、竹部教区会議長がおっしゃった「嘆仏偈」を受けて、法蔵菩薩があらゆる人が救われる国土を建立したいという願いを起こしました。その願いを成就する為にどうか世自在王仏、私に教えを説いてくださいと、こうお願いをする部分があるのです。それに対して師匠の世自在王仏は

 

 汝自ら当に知るべし
  『真宗聖典』13ページ

 

自分でその世界を知っていきなさいと、こういうことを投げかける。すると法蔵菩薩は

 

 我が境界にあらず
  『真宗聖典』14ページ

 

 いやいや私はそんなことはできません。どうか教えを説いて、国土を、人々の姿を私にお見せくださいと。こういうことを請い願い奉るわけです。
 すると、その言葉に感動した世自在王仏が説法を始めるのですが、その説法の中身は、こういう内容なのです。大海、広い海があると、その広い海の水を一升枡(ます)で汲んでいく。それには本当に数えることができないような果てしない時が必要になってくるであろうと。しかし、道を求めて止まざることあれば、必ず水はすべてなくなり、その底にある「妙宝(みょうほう)」を得ることができるであろうと。人間も同じであると、例え先が見えない広い海、そして深い海、濁りのある海、「生死(しょうじ)」の海が目の前に広がっていたとしても、その中を道を求めてやまざることあれば、ついに宝を得ることができるだろう、その宝とは願いだと。その宝というのは宝石ではなく願いだと。その願いを得ることができるだろうと、こういう説法を説かれるわけです。

 そして法蔵菩薩は「五劫(ごこう)」という長い年月をかけていろいろな国土を見て、そして願いを確かめる。本願という世界をあきらかにされたわけです。だから法蔵魂(ほうぞうだましい)というか、法蔵が法蔵たるゆえんは道を求めてやまずという、こういう世界を私たちに問いかけているのではないかと思います。たとえ広くて深くて限りなくある生死の海が目の前に広がっていたとしても、一升枡を大きな枡にするのではなくて、一升枡を使いながら水を汲み上げていけば必ず願いに出遇うと。こういう世界を示しているのが『仏説無量寿経』であります。
 そこで、この言葉は私たちにはできないことなのかもしれませんが、常にやはり願いに立ち返りながら、この願いに生きていくということが、これからのお寺や僧侶にとっては、宝になるのではないかということを思うのです。

 

 

■グリーフケアを通して

 これは私ごとですが、コロナの時代になってお寺の活動というものを去年の春からほとんど中止にしておりました。その中のひとつにグリーフケアのつどいというものがあり、これは大事な人を亡くした方々がお寺に集まってこられるつどいです。お勤めをして。ミニ法話という、仏法のお話を聞いていただいて、その後で自分の思いを語り合って聞き合うという、課題別の同朋会のようなものですが、それを中止していたのです。三月、六月と。

 しかし、その時にあるひとりの女性からお電話をいただきまして、「今月はありますか」「いや今月は中止です」「次回はどうですか」「まだわかりません」。次回になったら「今度はありますか」「今度も中止です」「次回はありますか」「まだわかりません」。こういう返答をしていたのですが、私は、その時に感じました。場を求めているというか、来たいと思っている人がいるのだと。そういうことで去年の九月からお寺の行事を中止にするのはやめようというふうに思いました。今はオンラインZOOM(注:インターネット上で会議などができるアプリケーション)と生参加という、選べるふたつの形でお寺の行事を再開しているところです。それで、九月のグリーフケアのつどいでお電話をいただいた女性が来られて、その方がおっしゃった言葉はとても印象に残っています。

 その女性は四十代くらいの女性なのですが、妹さんを急に亡くされた。事情はちょっと省略しますが、妹さんが亡くなる。そんなに仲が良い妹ではなかった、だから妹が亡くなったということを聞いてもそんなに深いショックを受けないだろうと思っていた。ところがそれからコロナになって、もう本当にどうしていったらいいのかがわからないというふうに思ってしまったと。そしてネットで探してこういうつどいがあるということで電話をしたということでありました。それで、その方がおっしゃったのは、妹を亡くしたということもとても辛いことだけれども、そのことをどこにも吐き出せない、誰も聞いてくれない、これがとても辛いのだということを、私のお寺に来られて語られたわけです。

 その方がおっしゃったのは、こんなことになるのであれば、なんでもっと妹と言葉を交わし触れ合うということを大事にしてこなかったのかという、後悔、罪悪感、自責の念。そういうことを語っていかれたのです。その時に集まっておられた方々が、実は私も後悔の思いがあるのだという形で、本当に小人数だったのですが、自分の思いを正直に告白、表現された方に共感というのが広がったような気がしました。

 

 

■道を求めている人との出遇い

 そこで、私はその時につくづく思ったのですが、この人だと。道を求めて今を生きている菩薩様はこの人なのだと。だから法蔵菩薩が世自在王仏に出遇って、道を求めて止まずという言葉をかけられて、そしてそれを実践されていったということは、やはり世の中には菩薩という形をとらずに、道が見出せなくて道を求めている人はおられるのですね、このコロナの時代の中で。そして、その人たち一人ひとりと出遇いながら道をたずねていくということは、これは今私たちがしていかなければならないことではないかと思います。

 今、おひとりのことをお話ししましたが、お寺の住職をしておりますと、今までもそうでした。いろいろな方々がお寺に訪ねてこられて、いろいろな人生をへめぐって、その中で何かを抱えて、そしてそれが自分を押し出すようにしてお寺の場に座るという方は、一人や二人ではありません。やはりそのことを信頼して、お寺が本当に道を求めて止まずという精神がみなぎるような場所として存在し続けるということ。それが私は淘汰されていく世の中にあって、生き残っていく道、お寺が生き生きとあり続ける道ではないかということを強く思います。

 

 

■道を求め続ける勇気

 それで、「宗門各位に告ぐ(宗門白書)」という文章がこの教団にはあります。私はこれも教団のひとつの宝だと思っているのですが、その宗門白書の中に、こういう言葉があることを改めて発見しました。

 

 宗門は今や厳粛な懺悔に基づく自己批判から再出発すべき関頭にきている。
 懺悔の基礎となるものは仏道を求めてやまぬ菩提心である。
 混迷に沈む宗門現下の実情を打破し、
 生々溌溂たる真宗教団の形成を可能にするものは、
 この懺悔と求道の実践よりほかにない。
  『真宗』1956年4月号

 

 これは親鸞聖人の七百回御遠忌の五年前に発表された文章ですが、今のコロナという現実を通してこの言葉を読んでみると、いかがでしょうか。なにか、今に向かって私たちを励ます言葉のような気がしてきます。懺悔(さんげ)と求道の実践と。このことがなければ、本当に生々(せいせい)溌溂(はつらつ)たるこの教団の再生はないのだという言葉は、今でも通用する言葉ではないかと思います。この三番目の中で申し上げたかったことは、今本当に私たちに必要なものは、道を求め続ける勇気。人々とともに生きる姿勢。こういうことがいえるのではないかと思います。

 ちなみに、私は簡単にそれらが消えてしまうようなものを内に抱えています。道を求め続けるというよりも、のんべんだらりと日常を過ごすとか。或いは人々とともにというよりも、自分さえ良ければということに常に傾いてしまうのですが、しかし先ほど「二種深信(にしゅじんしん)」の話がありましたが、そこが聞法の原点というか、だからこそ道を求めるのだというふうな呼び声が届けられているということも、譲れない点ではないかと思います。

 

 

■コロナウイルスから問われること

 四番目の言葉はこういう言葉です。「コロナから問われている私、何を大切にして生きるのか」という、こういうテーマでお話したいと思います。「コロナウイルスから人類への手紙」という詩があるのですが、ご存じでしょうか。この「コロナウイルスから人類への手紙」というのは、ある方が去年の今頃インターネットの世界に投稿して、それがいろいろな国の言葉に訳されて、日本にも伝わってきたというひとつの詩なのです。ちょっと長いですが一節を読んでみたいと思います。

 

 コロナウイルスから人類への手紙
            リーチ・R・リビアンス

 地球は囁きました
 でもあなたは耳を貸さなかった
 地球は話しました
 でもあなたは聞かなかった
 地球は叫びました
 でもあなたは耳を塞いだ
  そして私は生まれました…
 私はあなたを罰するために生まれたのではありません…
 私はあなたの目を覚ますために生まれたのです…

 

 こういう書き出しから始まる詩で、コロナウイルスが人類の今までの在り方、生き方を問い続けているという内容の詩なのですね。私がこの詩を読んだのは実はつい最近のことで、五月になってから、お寺のご門徒にこういう詩がありますよということで教えていただいて目にしたのです。本当にドキリとしました。もうちょっと別の一節を読んでみたいと思います。

 

 あなたはただ、自分の生活を続けていた
 どれだけの憎しみがそこにあろうと
 毎日何人が殺されようと
 地球があなたに話そうとしていることを心配するより、
 最新のiPhoneを持つことの方が大切だった

 

 ここもドキリとしました。世の中に様々なことが起こり、人が苦しみ、人が亡くなる。そのことで涙している人がいる。しかし、あなたはそのような中にあっても自分さえ良ければそれでいいと。自分さえ安泰であればいいと。そして最新のiPhoneを何よりも大切にしていたという。ドキリとしました。iPhoneという言葉をいろいろな言葉に置き換えていけば、何か自分が見透かされているような感じがしたのも事実であります。

 断っておきたいことがありますが、この「コロナウイルスから人類への手紙」というのは、ある方がコロナウイルスを私はこのように受けとめているという、自覚のある言葉であります。もちろんコロナウイルスが、こういう理由で生まれたという科学的根拠を表すものではありません。コロナウイルスがこういうふうに今、私たちに問いかけているのではないかという、自覚を伴った言葉であります。
 世の中には実際、コロナウイルスによって経済的に貧困し、非常に辛い思いをしている方がおられますので、その方に対して、これはコロナからの問いかけなのだというようなかたちで他者に押し付けてしまえば、それは本来の意味から逸脱してしまうことでしょう。諦めとか説得になってしまうでしょう。しかし、私はこの状況をこのように受け止めていますという、自分の生き方として、一人ひとりの受け止めということが確かにあれば、それはコロナによって苦しんでいる人に伝わっていくことだと思いますし、共感とか連帯というものを生みだしていくのではないかと思います。

 

 

■親鸞聖人のお手紙より

 それで、問われているのは私の生き方ということでありますが、この時にあたって『末燈鈔(まっとうしょう)』の親鸞聖人の言葉を振り返ってみたいと思います。『末燈鈔』の第六通

 

 なによりも、こぞことし、老少男女(なんにょ)おおくのひとびとの
 しにあい((死合)) て候うらんことこそ、あわれにそうらえ。 
 ―中略― おどろきおぼしめすべからずそうろう
  『真宗聖典』603ページ

 

 このお手紙は、コロナウイルスが感染拡大する中で再三いろいろな方々が取り上げているお手紙でありますが、書かれたのは親鸞聖人八十八歳の時。因みに八十九歳、九十歳の時の著述はありませんので、親鸞聖人がこの世に残された最後のお手紙というふうにいわれています。「こぞことし」ですから、昨年そして今年という意味合いですね。多くの人々が次々に亡くなっていく。これは疫病(えきびょう)とか飢饉(ききん)があったと。天変地異や飢饉、疫病というふうにいわれています。因みに正嘉(しょうか)の大飢饉、正元(しょうげん)の大飢饉ということがこの頃に起こっています。ですから、そのような中で疫病も流行り、人々がどんどん亡くなっていく。その時にあたって親鸞聖人がおっしゃったのは、「おどろきおぼしめすべからずそうろう」と。これは驚くなということよりも、 私は「驚くだけでは終わってはならない」というふうに勝手に読み換えています。人々が驚いているわけですから。次から次へと亡くなっていく、流行病によって。今ほど原因や状況もはっきりしない中で、人々が次から次へと死んでいく。そして、恐れおののいているわけです。そのような状況の中で、親鸞聖人は驚くなということはおっしゃらないのではないかという勝手な思い込みがあります。これは、より厳密にいえば「驚くだけで終わってはならない」というふうに、私は今受け止めています。

 

 

■今こそ本当に大事な言葉にかえれ

 なぜならばその証拠に、何をこの手紙でおっしゃりたかったのかということについて、親鸞聖人は、その最後の方で、とにかく身を守ろうと、自分さえ良ければというかたちではなくて、ご自身が若い頃に法然上人から教えられた本当に大切な輝きのある言葉を語られています。それは

 

 浄土宗のひとは愚者になりて往生す
  『真宗聖典』603ページ

 

 という言葉であります。これは法然上人から確かに聞いたと。このことをこそ今大事にするのだと。そういうことを八十八歳になる親鸞聖人はおっしゃったわけであります。
 だから本当に危機的な状況、食べ物がなくなり、飢饉となり、疫病が流行って、人がバタバタと亡くなっていく状況の中にあって、宗祖親鸞聖人は何を大事にされたのか。iPhoneなのかということですが、そうではなかったのですね。やはり、自分にまで温かなものを伝えてくれたその人。そして、その人の言葉、そして言葉が指し示した世界というものを何よりも大事にしようと。これが、宗祖親鸞聖人のお心ではなかったのかと思います。「なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし ―中略― おどろきおぼしめすべからずそうろう」。驚いて終わっている場合ではないと。そして「浄土宗の人は愚者になりて往生す」という、本当に自分を揺り動かし、励まし、温かくさせた言葉。つまり教えや世界にこそ、帰っていく時が今という時なのではないかと。そして八十八歳になった今も、少しも忘れられない師匠の仰せであるという。こういうことを見つめられた親鸞聖人が、このお手紙の中には確かに生きているのではないかと思います。
 ですから本当に私の生き方が、コロナから静かに静かに問われているのではないかということを思う次第であります。

 今日はコロナの時代を親鸞と生きるという、大きな題を出してしまったのですが、これは言うまでもありませんが、私が今きちんと親鸞と生きているということが言いたかったわけではなく、コロナという時代を親鸞が歩んだように生きていきなさいと。あるいは、親鸞が出遇った世界とあなたも出遇いなさいというような呼びかけとして、私は大事にしていきたいと思っています。

 世の中には、本当にいろいろな出来事が起こっています。今はコロナ一色ですが、そのコロナのことについても、様々に人間が織りなす闇がかたちになって現れているわけです。その現実の問題を通して、今私たちが大事にしなければならないのは、親鸞聖人その人が出遇った世界に私たちも出遇っていくという、この一点ではないかと思います。

 かつて私は、虚しさや不安や悲しさや辛さというものは、人間が生きる上で妨げになるものなので、そういうものがなくなっていけばどれだけ自由に堂々とこの世を生きていけるか、ということをずっと思ってきました。ところが、縁があって、親鸞聖人の世界に飛び込んでみると、虚しさや不安や悲しさや辛さということをとても大事に大事に抱きしめている世界がそこに開かれているということを、強く感じました。それらのことに背中を押されるようにして、人は道を求めて歩み続けるのだという。こういう心を大事にせよと言われたような気がしています。

 今コロナという時代を迎えているわけですが、その中で、本当に大事にしていきなさいと呼びかけられていることは、これしかないのではないかと思うのです。いろいろな問題に直面している私が、ひとりの求道者に立ち返っていくと。ひとりの道を求めて歩むものに常に立ち返り続けていく。これが本当に私の実践課題であり、あるいは、多くのこの世を生きる一人ひとりの人間の実践課題ではないかと思う次第であります。

 

 

■新しいチャレンジ

 ありあまる自粛生活の中で、私は今いくつか新しいことにチャレンジしていこうと思っています。身近なことで言えば、お寺の空いた土地に畑を作って、野菜を育ててみるとか。そういうこともありますが、今インターネットというものを使って、浄土真宗の世界を表現するということに挑戦をしています。例えば、お寺の法話会をネットで配信するとか。そこで動画を自分なりに作って、そして動画という形で教えを表現してみるとか。そういうことに少し力を入れています。

 私が今いる世田谷のお寺で、私は長男として生まれて、嫌々お寺の跡を継いだのですが、親鸞聖人の教団に入ってみると、今まで出遇ったことのないようなキラキラとまぶしい生き方をしている人たちがおられて、その方の後を追うように、真似をしながら、自分も寺を聞法の道場にしていこうという願いを先輩たちからいただいて、コツコツとやってきたわけです。私にとっては先輩たちと出遇ったということは忘れられないことであって、それは温かさと厳しさという、両極端のふたつのことを教えていただいたような気がしています。人間を包み込むような温かさと、本当にそれでいいのかというような厳しさ。そのような教えの世界を自分なりにお寺で表現していこうと思っています。いろんな方々がお寺に集まってきて、そしてその方々も道を求めていこうという一点で、つながって一緒に場を作ってきたということがあったと思うのです。

 しかし、去年からその場がもてない、密であってはならないということで、当初は今までコツコツやってきたことを否定されているような感じがして、元気をなくしてしまった時があったのですが、ただ、してはならないのは、密になることであって、聞法をしてはならないということではないわけです。ここはやはり本当に、きっちり分けて考えなければならないことです。

 

 

■五濁の今こそ出遇いを

 むしろ時代は苦しみとか悲しみとか孤立とか虚しさとか、いろいろなことがあらわになった時代です。だからこそ本当に光り輝くのが本願なのだということを表現している先輩もおられるし、だからこそ人間が教えに出遇うということを大事にしていくべきなのだということを、今こそ浄土真宗はきちんと表現していく時だということを思うわけです。

 そのことに対しておろそかであれば、私が途絶えさせてしまうわけです。せっかく今までつながってきたものを、私の代で閉ざしてしまうということにならざるを得ないと思いますので、やはりここは危機感を持ちながら、それでも可能性を模索して、今日報恩講を勤めるにあたっていろいろな模索をされたと思うのですが、そういう模索・工夫を凝らすということを、忘れずにやっていきたいと思っています。

 自分の在り方が今、静かに問われています。だから、そのことは、一年二年で考えるのではなくて、大海の水を一升枡で汲むようなものですから、ずっと後になって子どもや孫がこのお寺で生き生きと聞法道場として活躍するためには、あの時代、コロナの時代を生きた人たちは大変だっただろうと思うけれども、とことん教えに生きて、堂々と道場を紡(つむ)いでいったと受け止めてもらえるような、そういう生き方をしないといけない、していきたいと、今感じているところです。
                                  (了)

 

 

【酒井義一略歴】

 1959(昭和34)年東京都生まれ。東京教区存明寺住職。真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会委員。同朋会館教導。宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃事業(青少幼年)スタッフ。自坊ではこども会・こども食堂・グリーフケアのつどい等を開催し、地域社会に開かれた寺院活動を行っている。
 著書に『人間回復への道―ハンセン病問題と真宗』(東本願寺出版)、『ハンセン病問題から考える』(高岡教区発行)他。存明寺ホームページhttps://zonmyoji.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親鸞と出遇うお寺
 真宗大谷派 存明寺

東京教区の定例法話配信

真宗大谷派東京教区 宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃事業
定例法話配信
2022年9月1日より、いよいよ始まりました。東京教区の人びとによる法話配信です。是非ご視聴ください。

抗議します!

NO WAR    нет войне    戦争反対!
「殺してはならない 殺させてはならない」
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻・侵略戦争に、強く強く抗議します!
真宗大谷派 存明寺 住職 酒井義一

お寺からのお知らせ

9月以降のお寺の行事案内です。
生参加とZOOMのハイブリッドにて開催中。

〇10月1日8土)14時~グリーフケアのつどい
※事前のお申し込みをお願いします。
〇10月15日(土)14時~ 樹心の会
お話:末次皓子さん・酒井住職
〇10月28日(金)10時~おみがきのつどい
〇11月3日(木)10時~ 報恩講法要
お話:白山勝久さん・酒井住職
〇11月12日(土)14時~樹心の会
お話:城ノ下恭博さん&酒井住職
〇12月10日(土)14時~樹心の会
お話:三好浩一さん&酒井住職
〇12月17日(土)14時~グリーフケアのつどい

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真宗大谷派 存明寺

行事・催しのご案内

存明寺の動画コーナー

◆『日本のチカラ』にこども食堂が!

◆新作動画「私を照らすひかりの言葉」

◆新作動画「親鸞からの風に吹かれて③」2022年3月

◆動画「親鸞からの風に吹かれて②」2021年12月

◆動画「コロナの時代を親鸞と生きる」2021年6月

◆動画「存明寺の永代経2021」2021年5月

◆動画『緊急生配信 浄土真宗法話』2020年3月

◆動画「真宗本廟春の法要」2018年4月