真宗 大谷派 存明寺

法話 山陽教区にて(住職の法話)

法話 山陽教区にて 親鸞からの風に吹かれて

山陽教区 慶讃法要お待ち受け記念「親鸞聖人讃仰講演会」
 日時 2022年(令和4年)5月21日
 会場 姫路船場別院 本徳寺  
 講題 「親鸞からの風に吹かれて」
 お話 酒井義一(東京教区存明寺住職)

 

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  はじめに

 コロナの感染拡大が収束したとは言えないこの状況の中にあって、今回は三か所のサテライト会場をリモートで繋ぎ、なおかつ本徳寺さまに大勢の方々が身を運ばれ、親鸞聖人に出遇おうとされる、そのお一人おひとりの御こころざし、お一人おひとりの姿勢に対しまして、心から敬意を表したいと思います。
 皆さま、本日はようこそご参詣くださいました。私は東京からまいりました酒井と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 2020年の2月22日、自坊の子ども会がコロナの感染拡大によって中止になりました。 それから半年ほど、ほとんどの動きが中止になりました。
 その頃に感じておりましたことは、私も浄土真宗にご縁をいただき、色々な先生から教えに真向かう姿勢を教えていただきました。「自分も親鸞聖人の教えに出遇う、そういう生き方をしていきたい」という心を、たくさんの先生からプレゼントしていただいて、お寺を聞法の道場にしていこうと、コツコツと活動を進めておりました。
 2020年2月22日に行事を中止して以降、すべての活動を自粛せよと言われているような気が致しまして、今まで自分がやってきたことが否定されているような思いがして、随分落ち込みました。本当に力がなくなってしまったことが続いておりました。

 しかし、落ち着いて考えてみると、今避ければならないのは、人と人とが密になることであって、教えを聞く、聞法する、ということを禁止されているわけではないと思いました。

 そして、半年後の2020年9月から、今まではまったく興味がなかったオンラインを駆使しまして、お寺の活動を再開し、今日に到っております。

 今はオンラインでお寺の活動に参加していただくという形と、感染対策を徹底しながら直接お寺に来ていただくという、二通りの参加方法でお寺の活動を続けております。

 ご存知のように東京は感染者が多いのですが、コロナには負けないぞという心を持って、こういう時代だからこそ、人間を照らしてやまない親鸞聖人の教えに学ぶということを大事にしたいと改めて思う次第であります。

 私自身が今力を入れて取り組んでいることは、オンラインを使った自己表現といいますか、教えを自分なりの言葉で表現するということであります。過去の法話をホームページにあげてみたり、お寺の法要を生で配信してみたり、最近はミニ法話というコーナーを作って、娘が編集した動画をホームページにあげて、ともかくコロナには負けないという心持ちで取り組んできました。

 そうすると今までとは違った形で人との出会いがおこってきました。法話の動画を見ていただいた方が、お寺の法座にオンラインで参加したり、わざわざお寺まで訪ねて来られたり、そのような出会いがちらほらと出始めているのが今の私のお寺の現状です。

 ある男性の方は、去年オンラインでご参加いただき、その後に直接お寺にやってきて下さいました。なぜオンラインで法話を聞こうと思われたのですかとお聞きすると、こんなことを言われました。

 その方は東京に出て来られて働いていたそうですが、具体的なことは省略いたしますが、コロナになって仕事がうまくいかなくなったそうです。その時に、一体これからどうやって生きていけばいいのだろうと、問いを抱かれたということです。そして、その時に思い出したのが、故郷で朝夕赤本を一生懸命読んでいるお婆さんの姿だったということでありました。

 今になって、あの赤本には、何が書いてあるのだろうか。そして手を合わせていた先の阿弥陀さまとはどういう方なんだろうか。それを知りたい。オンラインを通じて浄土真宗の教えを聞き始めたその方がおっしゃるには、浄土真宗の世界は、今まで当たり前に生きてきた自分の在り方を本当にそれでいいのか、という形で優しく問いかえす、問い直してくれる、そんな空気が満ち溢れているように感じているということでした。

 コロナの状況の中で、いろんな生きづらさを抱えて、そして浄土真宗の教えを聞き始め、そこに確かなものがあるということを感じられたその人の存在が、励みになりました。時代は厳しい時代を迎えていますが、その厳しい時代の中を懸命に生きる人が、教えを求めておられるのだと。これは本当に頼もしいことであり、いよいよ私たち浄土真宗に関わる者が、場を開き、人々と共に教えを聞いていくという、こういう時が今確かに訪れているということを、東京の片隅のお寺の住職をしながら、とても強く感じています。

 求める人がいるのだと。そして共に教えに学ぶのだと。そういう心はコロナになったからといって諦めてはならないのだということを、強く思っている所であります。

 このように思うのも、この男性が、オンラインを通して、私の目の前に現れて下さったおかげだと思っております。

 

 

  風に吹かれるということ

 話を今日の講題に戻しますが、今日は「親鸞からの風に吹かれて」という講題を出させていただきました。最初に親鸞聖人にお詫びをしなければならないのですが、恐れ多くも、御開山聖人を呼び捨てにしてしまったそのことです。「親鸞からの風に吹かれて」という言葉が私の中でし っくりくる感じがしたので、あえて宗祖を呼び捨てにさせていただきました。どうかお許しください。

 風というのは、もちろん色もありませんし、形もないものです。しかし風が吹くと、木々が揺れる。あるいは雲が流れる。あるいは頬に風が当たるという形で、ああ今日は風が吹いているなということを、感じることが出来る、それが風です。風というのは、例えでありまして、これは親鸞の声、親鸞の言葉、親鸞の教え、親鸞の生きた世界。総称して今日は風というふうに表現してみたいと思います。言葉とか、声とか、教えとか、親鸞聖人が生きた世界を風という言葉にまとめて、その風に吹かれていこうではないか。

 ご存知のように、親鸞聖人はもうずいぶん前にお亡くなりになられた方です。今その方はもうおられません。しかし言葉を換えれば、親鸞聖人は風となって、言葉となって、声となって、今も吹き続けている。亡くなったからその風が止まったのではなくて、今もこのコロナ、そして人と人とが殺しあう、この時代社会の中に、親鸞が風という形で、立ちあらわれて下さっている。

 その風に吹かれるということ、そのことを今日はいくつかの言葉を手掛かりにして、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

 

 

  人と生まれたことの意味

 来年勤まる慶讃法要のテーマが発表されました。その言葉とは「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」という言葉になったわけであります。このテーマには、ひとつの単語が隠されているというふうに私は受け止めています。

 その単語とは何かというと、私なりの表現方法ですが、南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味を「教えに」という言葉。教えにたずねていこうという言葉が隠されているのではないかと受け止めています。勿論これは、「親鸞に」という言葉でもいいのだと思います。

 その「教えに」という言葉、或いは「声」と置きかえていいのかもしれませんが、つまりどこかの見知らぬ誰かに、人と生まれた意味をたずねていこうということではありません。では自分で考えて、自説を展開していこうということでもありません。やはり先を歩んだ人の言葉に自分の生きる道を尋ねていこうということが、このテーマの大きな意味ではないかと思います。

 今日は三つの言葉をご紹介させていただきまして、人と生まれるということはどういうことなのかということを、考えていきたいと思います。

 

人は苦悩を抱く

 まず一番目は、「人は苦悩を抱く」。
 これは親鸞聖人が書かれた『教行信証』の中にその根拠があります。

 

この五濁(ごじょく)・五苦等は、六道に通じて受けて、未(いま)だ無き者はあらず、常にこれに逼悩(ひつのう)す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数(ぼんじゅ)の摂(しょう)にあらざるなり、と。(真宗聖典214頁)

 

 難しい言葉ですが、五つの濁り、五濁。五つの苦しみ、五苦。等というのは、などなどは。六道、六つの迷いの世界のどの世界にあったとしても、それを受けて、常にこれに逼悩す。悩むと。人間という者は、五つの濁りや、五つの苦しみを、どんな生き方をしていたとしても、それを身に受けて常に悩む、という存在なだといいます。

 もしもこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり。もしこの苦を受けない者は、もはや人とは呼ばない、という意味の言葉が親鸞聖人の『教行信証』の信巻に引用されているわけです。

 つまり、平たく言えば、人間に生まれた者は、必ず五つの濁り、五つの苦しみ、そして六つの迷いの世界に出遇うのだと。出遇ってしまうのだということが、ここで表現されていると思います。

 

 

  • 見濁という濁り

 「五つの濁り」とは何かということについてですが、今日は時間もあまりありませんし、力も十分ありませんので、一つだけ「見濁」という、人間の見方が濁っているという世界を訪ねてみたいと思います。これはテキスト『宗祖親鸞聖人』によりますと、見濁というのは、互いに自分の考えを正当化し、他人を非難しあう世界。そういう濁りだと言われています。自分は正しい、そして相手を非難していく。これが見濁という言葉で表現されている人間の抱える濁りの世界。

 私の仲人さん、藤森教念さんという方がおられました。十年前にお亡くなりになられたのですが、私が慕っていた先輩のお坊さんです。とてもかっこいい生き方をしている人で、私はひそかにあこがれていました。その方が繰り返し、繰り返し私に教えてくれた言葉がありました。それはこういう言葉でした。

 

私は正しい・・・
すべての争いの根は ここにある(藤森教念)

 

 親鸞聖人に熱い思いを抱いておられた藤森教念さんが、常に繰り返し私に伝えてくれました。忘れられない言葉です。何故かというと、私自身そういうことを繰り返して生きているからです。私は正しいという形で、私に正義をつけると、当然のことですが、相手が悪者に見えてくる。そして正義を握りしめながら、相手を見失っていくということを、繰り返し繰り返し、行なってきたのが私の身の事実であります。

 人間関係の中で、相手を悪者にし、そして相手が見えなくなる時はないでしょうか。往々にしてそのような時、私たち人間は、自ら正義というものを握りしめて、自分は正しい。こう言って争いを繰り返しているのではないでしょうか。

 もちろんそのことを強く思うのは、ロシアがウクライナに対して、戦争を仕掛けたということが起こったからです。ロシアという国も、自分たちの中心に権力という濁りを抱きながら、自分たちの正しさを握りしめ、そして武力で相手を攻撃するということが行われてしまった。やはりそこにあるのは、正しさに迷う人間のすがたなのではないかということを、あの現実が私たちに教えているように思います。

 私は正しい、全ての争いの根は、ここにある。

 人間関係もそうですが、国と国との戦争が行われている今、私はこの親鸞聖人から届いた、そして藤森教念という私に縁のある方から届いたその風に吹かれて、そのようなことを繰り返していないかどうかを振り返る、そういう勇気を持つべき時に来ているのではないかと、そんなことを思います。

 

 

  • 愛別離苦という苦しみ

 そして次に「五苦」という、五つの苦しみ。これは善導大師という、親鸞聖人が尊敬された方の見方ですが、生・老・病・死と、そこに愛別離苦を加えて、その五つの苦しみが、人間がこの世で抱える苦しみのすべてだというふうに表現されました。だから五苦の中で、すべてのことをお話する時間も力もありませんから、「愛別離苦」ということについて少しお話をさせて戴きたいと思います。

 愛別離苦というのは、愛する者と別離をした時に感じる苦しみのことをいいます。愛する人と別離する、愛する人と、または愛する何かと別れなければならない時に、人間が抱える苦しみを愛別離苦といいます。

 私ごとで恐縮ですが、コロナの始まるちょっと前に、母親が息を引き取っていきました。脳梗塞で倒れて、十カ月間一切身動きせず、言葉も発しないで、やがて力尽きて、亡くなっていったのです。こういうお話は誰でも経験することなのかもしれません。しかし一つひとつの出来事には、物語というものがありまして、私の場合は、倒れる日の朝六時に母親が起きてまいりまして、私にこう言いました。「今日は調子が悪い」と、身体の不調を訴えたわけです。

 しかし、母親はあちらこちらを悪くしておりましたので、身体の調子が悪いのは、何もその日に限ったことではなかった。朝早いので、まあ椅子に座りなさいという形で椅子に座って、そして一時間私は朝の雑事をしました。つまりほったらかしにしてしまったわけです。

 七時になって、母親はいびきをかいて、それで大変なことになってしまったと救急車を呼んで、緊急手術をしたのです。しかし、時すでに遅く、母親は言葉を失い、身体の動きも失って、横たわっているだけのすがたになってしまいました。

 コロナの前でしたので、自由に面会は出来るのですが、面会するたびに、ものを言わず、目もうつろな母親を前にすると、なんであの時体の不調を訴えた朝六時に丁寧に相手の体調を聞き、適切に対応しなかったのだろうか、という自分を責める心がどんどん湧いてきて、どうしようもなかった日々がありました。お恥ずかしいことです。

 自分が母親をこういう状況に追いやってしまった罪の意識といいますか、自責の念といいますか、罪悪感というようなものをずっと感じ続けていたのです。

 しかし、感じていたのはそれだけではありませんでした。これは母には言えないことですが、母は認知症を患っておりまして、その生活はどちらかというと、大変な生活でした。

 薬の管理とか、病院の送り迎えとか、そういうことはすべて私の担当で、自分の部屋がどこだか分からなくなって、お寺の中をぐるぐると徘徊することもあったり、ものがなくなったと思い込み、あの人が取ったのではないかというようなことを言いだしたり、そのような日々がありました。そのような日々があった中で、母親が倒れて、言葉を発せず、ただ静かに横たわっている。その姿を見たときに、これは母親には言えないことですが、ああやっと解放されたということを思ってしまう自分が、突然現れてきてしまったのです。

 かたや申し訳ないことをしたという思いと同時に、かたややっと解放されたというような思いを抱いてしまう。私を産んで育ててくれた方に対して、そのような思いを抱いていました。その看病の月日の中で、母親は言葉は発しなかったのですが、「あなたの心の中には、罪の意識や自分を責める心もあるけれども、自分さえよければそれでいい、と思うような気持もあるんだよ」という形で、自分の中の心をえぐりだされたような、そんな気がいたしました。「そのような思いを抱えたまま、仏さまの教えを聞いていくんだよ」そんな無言の声が聞こえてくるような気がしました。

 愛別離苦という、愛する者と別離するときに迎える苦しみということですが、これは単に悲しいという通り一遍の言葉ではなく、そこには後悔の思いもあるし、そこには安堵という自分さえよければという思いとか、いろいろな思いを抱くのが、私たち人間というものなのではないかと思います。

 

 

  • 天上界という迷い

 それから次は「六道」という迷いの世界ですが、その中に天上界という世界があります。天の上の界と書いて、天上界といいますが、これはなんでも思い通りになる世界を天上界と、こういうふうに表現します。今はコロナの影響で行動制限というものがあって、思うように行動することが出来ない世の中になってまいりました。

 こういう世の中にあって、この天上界というのはその逆で、なんでも自分の思い通りになる世界を天上界という。例えば、今は旅行などに行けませんが、この天上界という世界は、どこでも好きなところに、いつでも行ける。海外旅行もなんのその、そんな世界です。

 それからなんでもほしいものが手に入る。車、時計、宝石などなど、自分が欲しいと思うものが、すべて手に入る。そしてなんでも食べたいものが食べられる。思い通りになる世界ですから、足腰の痛みも、あっという間に消えて、いつまでも健康で、長生きも出来る。こういうような自分の思い通りになる世界。ある意味では、私たちが心の奥底で、願い求めている世界なのではないかということを思います。

 しかし、このような世界も、実は迷いの世界として表現されているということが、とても大事なことではないかと思います。迷いの世界。なぜか。どんなに思い通りに生きられたとしても、空しさを超えられない。そういう世界として、天上界が説かれているということが、とても大切なことではないかと思います。

 どんなに思い通りになったとしても、空しさを超えられない。人間は心の奥底で、自分の思い通りに生きていきたいという心を握りしめるようにして持っていますが、たとえ自分の思うように生きられたとしても、欲しいものが手に入り、行きたいところにも行けて、自分の思い通りに生きられたとしても、そんなことくらいでは満足して、ああいい人生だったといって死んでいくことなど出来はしないのだということを私たちに教えているのではないかと思います。

 もう一度繰り返しますと、どんなに思い通りに生きられたとしても、そんなことくらいで、ああいい人生だったなといって、満足して死んでいけるほど、私たちは薄っぺらな存在ではないのだよということを、私に問いかけているのではないでしょうか。

 たとえどんな困難なことが目の前に起こったとしても、身を投げ出して、そのことを尽くしていけるような世界。この世に生まれてきた意義というものを明らかにしなければ、空しさを超えられない。こういう深いものを人間という存在は抱えている。

 空しさを残したままではなく、やはり人として生まれたことの意味というか、在り方ということを明らかにせずにはおられない、そういう願いが私たちに届けられているのではないかということを思います。

 一番目は、「人は苦悩を抱く存在」ということでありますが、これは苦悩というものを縁として、人は歩き出していくということが、その大きなテーマではないかと思います。

 

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人は西に向かう

 二番目の言葉は、「人は西に向かう」という言葉であります。

 これは親鸞聖人の『教行信証 信巻』(聖典219頁)の中に二(に)河(が)白(びゃく)道(どう)という話が出てまいります。「譬(たとえ)えば、人ありて西に向かいて行(ゆ)かんと欲(ほっ)するに」という言葉から始まる二河白道という物語。人があって、その人は西に向かって行こうとしたというところから、その物語が始まっていくわけですが、この西というのは、目覚めとか覚りの世界、仏さまの世界という意味です。

 人は西に向かう。ちょっと話が飛ぶようですが、私は東京・世田谷のお寺の住職をしております。お寺には本当に思いもよらずに、いろいろな方が訪ねて来られます。コロナという時代になって、ある日お寺の近所に住む女性が、お寺を訪ねてくださいました。その方がおっしゃるには、お礼を言いに来ましたということでした。一体どういうことかといいますと、その方はお寺の近所に住んでいて、ある時、いろいろなことが重なって心の病というものに罹(かか)ってしまった。そして、人と会うのが辛くなってしまい、家に閉じこもるような生活を続けていたそうです。それでは体に良くないので、先生がなるべく散歩をしなさいと、こういうことをおっしゃって、その方はご自身の家の周りをよく散歩をするようになった。すると私の自坊は寺町になっており、二十六カ寺のお寺があるのですが、いろんなお寺に法語というのが貼ってあります。その中の真宗大谷派の法語を読んだときに、ドキッと響くような言葉と出遇ったと、その方がおっしゃいました。その言葉がどんな言葉だったかといいますと、私が大事だと思った言葉なのですが、東京教区の坂東性純という先生が残された言葉です。こういう言葉です。

 

自分を困らせている問題しか 
自分を立ち上がらせるご縁はない。(坂東性純)

 

 坂東性純先生はもうお亡くなりになって、この世にはおられないのですが、先生の遺された言葉が、私にも響いてきました。自分を困らせる問題は、早く忘れたい。早くなくなってほしいと思うのが、私たちの日ごろの心ではないでしょうか。

 しかし、親鸞聖人の教えに生きた坂東先生は、自分を悩ませている問題こそが、自分を立ち上がらせて、そして背中を押して、歩き出させるのだ、と。この女性も、この言葉に触れて、自分は病いを持っている、そのことで困っている。一体どうしたらいいのだろうかという思いを抱いた時に、この「自分を困らせている問題しか、自分を立ち上がらせるご縁はない」という言葉に触れて、ドキリとした。大事な言葉だというふうに感じた。こうしてお寺を訪ねて下さったわけです。それがご縁となって、今もオンライン、あるいは生参加という形でお寺に身を運び続けて下さっています。

 生きづらさというものを抱えた方々が、今、世の中には沢山おられて、苦しみや悲しみを生きている方も沢山おられる。しかし、そのことが大きなご縁となって、親鸞の風に吹かれるという出来事が起こるのも、この世の中です。私たち人間なのですね。そんなことをこの方との出会いの中で感じました。

 人はいろいろな現実に出会って、生きづらさというのを抱える。苦しみや悲しみや、困ったことがあるが、それらが大きな縁となって、立ち上り、歩き出していくという。今日のテーマで言えば、「親鸞からの風に吹かれて」。私を呼ぶ声が響く。こういうことが起こりうるのも、私たち人間の持っている、大変大きなことではないかと思います。

 

 

人は過ちに気づく

 三番目の言葉は、「人は過ちに気づく」という言葉です。人は過ちに気づくべき存在である。人間というのは、自分でも知らない間に、過ちというのを繰り返して今日まで生きてきました。そのような人間に対して、親鸞聖人の主著 『教行信証 信巻』にこういう言葉があります。

 

「無慙愧(むざんき)」は名づけて「人(にん)」とせず、
名づけて「畜生(ちくしょう)」とす。  (真宗聖典257頁)

 

 申し訳なかったという、自らのすがたを顧みることがない者は、人とは呼ばない。名づけて畜生とするという言葉です。厳しい言葉だと思いますが、申し訳なかった、あるいは、自分は過ちを犯していたという気づきがない者は、もはや「人」とは呼ばない。それは「畜生」だ、と。これは親鸞聖人が出遇った言葉です。

話を少し戻しますと、今ロシアという国が、正義を握りしめて、ウクライナに戦争をしかけています。正しさを握りしめて、人を殺していくという、その過ち。その過ちに対して、今この場をお借りして私はプーチンさんというひとりの人に申し上げたいことがあります。悪口ではなくて、正々堂々と申し上げたいことがある。

 それは、プーチンさん、あなたは力があるから、戦争を仕掛けたのではないということです。
 あなたは、暴力というものに頼らざるを得ないほど、人と対話をする力がない、弱い存在なのだ、ということを申し上げたい。暴力というものに頼らざるを得ないほど、人と対話をする力を持たない、弱き存在。それがプーチンさんだと思います。

 そして、人々が抱える苦しみや悲しみを、感じ取る力も弱い。自分が犯した過ちを振り返り、その過ちに気づいていく力も弱い存在なのだ。ということを、やはり今この場をお借りしてプーチンさんに申し上げたい。
 あなたは今、対話をする力も持たず、人々と共感する力も持たず、悲しみや苦しみを感じ取る力も持たず、自らの過ちに気づく力も持たない、それに気がついていく、過ちに気づいていく、それが今戦争を起こしている張本人であるプーチンさんの大きな宿題なのではないですか。
 プーチンさん、もし私の声が届いたら、必ず返事を下さい。以上。ということです。やっぱりプーチンさんは弱い存在です。

 武力があるから戦争をしたのではない。対話をする力がなかったということを、きちんと見抜いていくのが、私たち真宗の教えに生きる者の大きな課題ではないかと思います。対話をしていく、悲しみを感じ取る、過ちに気づいていくということを大事されたのは、親鸞聖人だったと思います。「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。ということであります。

 それは本当に大事なことだと思いますが、やはりもう一点外せないことは、世界を問うということは、自らを問うということであり、自らを問うということは、私が作る世界を問うということであるということを、私は浄土真宗の世界に触れて、教えていただきました。

 だからプーチンさんを問うということは、もちろん大事なことでありますが、自らの生き方はどうなのかということが問われているということも、外してはならない大事なことではないでしょうか。

 この国もかつて、正しさを握りしめて、戦争を正しい戦い、つまり聖戦と称して、多くの人を見失ってしまいました。その過ちに気づき、その過ちから出発するような歩みを一人ひとりが忘れてはいませんか。そのことが私たちにも問われている宿題であります。

同じように人間関係の中で、勝手に正義を握りしめ、隣にいる人を悪と見て、相手を見失ってしまうという、そんな過ちを繰り返してはいませんか。これは私たちに課せられた課題です。

 プーチンさんにも宿題はあるけれども、私たちにも宿題があると。 その両方を見失わない。自己を問うということは、世界を問うことであり、世界を問うということが、自己を問うということ。これが親鸞聖人からの声、風なのでないかというふうに思います。

 

(休憩)

 

 

お待ち受けについて

 これだけ大勢の皆さま方を前にしてお話をするというのは、本当に久しぶりのことであって、コロナ前以来です。ほとんど今はオンライン・リモートです。法話をするのもパソコンの画面に向かって話すのにだいぶ慣れてきています。今日は生の皆さまを前にして、多少緊張気味です。

 「お待ち受け」という言葉がこの教団ではよく使われます。「お待ち受け」。2023年に慶讃法要が勤まるのですが、それを待って受けるという。落ち着いて考えてみると、ちょっとおかしくないですか。おかしいと言ったら失礼ですが。

 まず自分というのが2022年の5月、今日は21日でしたか、自分が生きていく先に、二〇二三年の春に慶讃法要が勤まる。自分がその法要に向かって歩んでいくというのが普通の時の流れだと思うのです。

 しかし、このお待ち受けという言葉は、一向に親鸞聖人に出遇おうとしない私たちに、親鸞聖人の方から2023年の慶讃法要という形で、だんだんだんだん私に近づいてくる。そんなことを私はずっと感じていました。これは宗祖の御遠忌の時もそうでした。言葉で言えば、なかなか親鸞聖人に真向かおうとしない、あるいは親鸞聖人からの風を感じようとしない私たちに向かって、親鸞聖人御自らが、慶讃法要という形を取って、私の方にやってきてくださると。

 これを待ち受ける。誰が待ち受けるのでしょう。言うまでもなく、この世で様々な苦悩を抱き、様々な生きづらさを抱えて生きている私たちが、それを待ち受ける。しっかりと受け止める時が慶讃法要という時なのではないかと、そんなことを思います。

 ただうかうかすると、通り過ぎてしまいますから、そういうことがないように、苦悩を抱える我々が、いろんな課題を抱える我々が、いろいろな過ちを繰り返している私たちが、親鸞聖人からの声・風・教え・世界を受け止めるという時が慶讃法要という時ではないかと思います。

 

 

  人と生まれて 教えに出遇う

 慶讃法要を迎えるにあたりまして、教団に宗務審議会という、ちょっと聞きなれない会が開かれました。もう四年位前だと思いますが、慶讃法要をどういう形でお迎えするべきかという基本計画を語りあう場が一年間にわたって毎月一回開かれ、本山に集まって話し合いが行われました。私もそのメンバーの中のひとりであります。その場所で慶讃法要についての話し合いが行われていたのですが、ある日こういう話し合いになりました。

 慶讃法要は、御誕生八百五十年と立教開宗八百年というふたつの側面があるが、一体どちらに重きをおいてお勤めをするのか、と。親鸞聖人が人と生まれたというお誕生を祝うことがメインなのか、それとも親鸞聖人が浄土真宗を開いたといいますか、浄土真宗という教えに出遇われた、立教開宗ということがメインなのかという、そういう話し合いが行われたことがありました。

 いろいろな意見が出て、これはやはりお誕生ということだろう、いやいや、やはり立教開宗の方が大事なのではないか、というようなことだったのですが、結果的にまとまったことは、別々のことのように見えるけれども、これはひとつのこととして考えていくべきだということでありました。

 どういうことかといいますと、人と生まれたということは、嬉しいことも楽しいことももちろんあるけれども、思いもかけない辛い出来事とか、自分が嫌いになってしまうことや、親しい人と別れてしまうこと、生きづらさというものを抱えること。いろいろなことが起こるのも、人間です。でも、そういういろいろなことを抱えながら、親鸞聖人はそのことを問いとして持ち続けて、やがて二九歳の時に、人生の先生ともいうべき法然という方に出遇って、「ああかっこいいな、この人みたいに生きていきたいな」という心が芽生えてきた。

 そういう形で教えに出遇っていくことが起こったのが、我らが宗祖・親鸞聖人の歩みです。人と生まれて、自分では解くことのできない課題を抱えて、それは無駄な人生だったのかというと、そのことを通して教えに出遇っていかれた。「人と生まれて 教えに出遇う」。そういう願いが込められている法要が慶讃法要というふうに教えていただきました。

 

 

  御誕生について

 御誕生ということと、立教開宗についてお話をしてみたいと思うのですが、御誕生というのは、人間に生まれたということです。

 人間に生まれたということを、どのように受け止めていくのかということについて、私たちが大事にしていかなければならないのは、源信僧都の作と言われております『横川法語』の次の言葉ではないかと思います。こういう書き出しから始まります。

 

それ、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)、三(さん)悪道(まくどう)をのがれて、人間に生まるる事、大(おおき)なるよろこびなり。  (真宗聖典961頁)

 

 三悪道という、地獄・餓鬼・畜生という、そういう在り方を逃れて、人間として生まれたことは、大いなるよろこびなのだということから始まる文章です。私は二〇代の頃に初めて読んだのですが、さっぱり分かりませんでした。なぜ人間に生まれたことをよろこべと、こう言われているのかということが分からなかったのです。

 何故かといえば、二〇代の頃でもそうですが、人間というのは、思い通りにならない現実を生きるわけですから、もやもやっとしたものを抱えながら、いろんな問題を抱えながら生きるのが人間ですから、なぜ人間に生まれたことをよろこべと、ここでおっしゃっているのかが全然分かりませんでした。
 ですが、この後をじっくり読んでいなかったのが原因だったのです。この後にどんなことが書いてあるのかというと、

 

世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提(ぼだい)をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。  (真宗聖典961頁)

 

 という言葉が出てきます。「世のすみうきはいとうたよりなり」。この世の住みにくいということ、生きづらいということは、この世をきらい浄土を願う大きな手掛かりになるのだというふうに文章は展開していくのです。生きづらさを抱えるというのは、浄土という世界に出遇いたいという、そういう心を呼び起こすのだ、と。そして「身のいやしきは」ということですから、身の愚かさ、身の濁り、苦しみを抱える身は、「菩提をねがうみちしるべ」となるのだ。

 こういうことは、なかなか私たちの日ごろの心からは出てこない世界ではないかと思います。

 生きづらいことは、浄土をねがうしるべなり。たよりなり。そして身の濁りや生きづらさは、菩提をねがう、つまり目覚めをねがうみちしるべとなっていくという、こういう世界を私たちに届けてくれるわけです。

 そして大事な言葉だと思うのですが、「よろこぶべし」。この『横川法語』には「よろこぶべし」という言葉が二度も出てくるのですね。人間に生まれたことをよろこぶべしと。どうかよろこぶものであってほしい。辛さもあるでしょう、濁りを感じることもあるでしょう。でもそれらは無駄ではないのだ。菩提をねがうみちしるべなのだと。覚りに向かって歩んでいく、そういう便りになるのだ。

 だから人間に生まれたことをよろこぶべきという、それがひとつ。そして、もうひとつ「本願にあうことをよろこぶべし」と、よろこぶべしが2回出てくるのです。

 本願に出遇うことをよろこぶべし。人間に生まれて、様々な濁りや辛いことは、実は本願に出遇うたよりになる。そのことをよろこぶべしというふうに言われている。

 人間に生まれたということをたずねる上において、すでに先を歩む方々が指し示されている世界、無駄ではないぞ。そのことを、たよりとして、本当によろこぶ世界があなたを待っているぞと。その世界にどうか触れてほしい。人間に生まれたことをよろこぶ人であってほしいということが、慶讃法要の御誕生ということに込められている大きな隠れテーマではないかと受け止めている次第であります。

 自分で自分をよろこぶということよりも、よろぶものであってほしい。本願に出遇うものであってほしいということが、私たちに届けられている声や風なのではないでしょうか。

 

 

立教開宗について

 そして次に、立教開宗ということについてお話をさせて戴きます。

 教えを立てて、宗を開く。

 この言葉を聞きますと、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が、浄土真宗を立てたというふうに、一般的には受け止められていますが、より正確に言えば、親鸞聖人が浄土真宗を立てたのではなくて、すでにあった浄土の真宗という、人間を目ざませ、人間を呼び続ける教えに、親鸞聖人も出遇われたということが、より正確な表現だと思います。

 もう一度申し上げますと、親鸞聖人が浄土真宗を立てたということではなくて、すでにあった人間を見つめ続ける浄土真宗という教えに、親鸞聖人が出遇われたという、それが立教開宗の中味だと思います。

 ちなみに、立教開宗は親鸞聖人が『教行信証』の草稿本、仮に作った第一番目の本が出来た年と、こういうふうに言われている説があります。元仁元年1224年親鸞聖人五二才の時、1224に800をたすと、2024,それに一を引きますと2023年が親鸞聖人が『教行信証』を作られてから八〇〇年になるという説があります。

 親鸞聖人ははっきりとこの年ということは明記しておりませんから、この説を採用して2023年に立教開宗八〇〇年というふうに教団連合が定めています。

 親鸞聖人が浄土真宗に出遇われたということを、とても強く感じるのは、私は『教行信証』の総序ではないかと感じています。そこにはこういう言葉が出てまいります。

 

ここに愚禿釋(ぐとくしゃく)の親鸞(しんらん)、慶(よろこ)ばしいかな、西蕃(せいばん)・月支(がっし)の聖典(しょうでん)、東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈、遇(あ)いがたくして今遇(あ)うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。  
                           (真宗聖典150頁)

 

 この『教行信証』の「総序」の文は、私が学生だった頃に、これを暗記するようにと先生から指導を受けました。ですから、一応は暗記をしております。

 でも二〇代三〇代の頃は、何が書いてるのか。さっぱりチンプンカンプン。ただひたすら暗記をしたというのが、正直なところでした。

 しかし、いろんな先生から、この言葉にはこういう心が宿っているんだぞと、いろんなことを教えていただいて、今はちょっと違って聞こえてくるようになりました。

 「慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典」、西蕃というのはインド。月支というのは、パキスタンなどの中央アジア。慶ばしいかな インドやアジアの聖典、教えの言葉。或いは風と置き換えてもいいでしょう。「東夏・日域の師釈」、東夏というのは中国や朝鮮半島、日域は日本。師釈は先を歩んだ人の言葉。

 遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。

 つまり、親鸞聖人の感動を表す言葉です。慶ばしいかな。何を慶んでおられるのでしょう、宗祖親鸞聖人は。それは西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈。時を超えて、そして時代も超えて、私のところまで運ばれてきた教え・声・言葉・世界。そして今日のことで言えば、風を感じることに対して、やっと聞こえた。やっと出遇えた。そのことをひたすら慶ぶ親鸞聖人が、ここに生きているわけです。

 言葉を換えれば、親鸞聖人もこの「総序」の文を書くまでは、なかなか声が聞こえてこなかった。なかなか出遇えなかった、確かな教えに。そういう日々があったからこそ、聞こえたこと、出遇えたことに、慶ばしいかなという感動の言葉を表している宗祖親鸞聖人が、この中に今も生きているのではないかということを感じるようになりました。

 ほほえむ親鸞。親鸞聖人は、きりっとしたお顔の絵像が多く残っておりますから、笑顔の親鸞聖人というのは想像するのが難しいのですが、このときはさすがにあのようなきりっとした顔ではなかったのではないかと思うのです。遠くを見ながら、やっと出遇えた、やっと聞こえたということを慶んでおられる、ほほえむ親鸞。この部分を読むと、そういうことを感じることがあります。
 勝手に想像しているにすぎませんが、笑顔の親鸞、ほほえむ親鸞。

 つまり立教開宗というのは、親鸞聖人が宗をたてたという言い方が出来るかもしれませんが、より厳密にいえば、すでにして人々の間に流れ続けていた確かな世界に、親鸞聖人もまた確かに出遇われた。これを立教開宗、人々の救いの歴史に出会い、私もその救いの歴史に入っていく、そのことを慶びをもって語られる親鸞聖人が、立教開宗という言葉の中に笑みをたたえながら生きておられるのではないかということを思います。

 このような御誕生ということと、立教開宗ということを、ひとつのこととしてとらえ、人と生まれて教えに出遇う。これが慶讃法要の私たちが見失ってはならない大事なテーマといいますか、願いではないかと思います。人と生まれているのですから、いろいろなものを抱えているのです。でもそれが手掛かりとなって、確かな教えに出遇う、そしてそれは、慶ばしいかなと、先を歩む親鸞さまが慶ばしいことだという形で、それを慶ばれた。

 この「慶ばしい」は、慶讃法要の「慶」という字です。人と生まれ、様々な問題を抱える。ここで終わったら、それで終わりですが、しかし、様々な問題を抱えることを通して、時を超えて場所を越えて私にまで伝わってきた教えに出遇う。それを「慶ばしい」と、こう表現した親鸞さまが、今も生きているということを私たちは忘れてはならない、ということを思います。

 

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一人ひとりの慶讃法要を

 昨年、2021年の4月のことですが、御本山東本願寺、真宗本廟で慶讃法要お待ち受け大会が行われました。記念法話に池田勇諦先生がご法話をされました。数々の非常に印象に残る言葉を私たちに届けて下さったのですが、その中で私自身がどきりとした言葉を読ませていただきます。

 

もしも、「私にとって」というこの一点が抜け落ちると、もう慶讃法要は私には関係がなくなる。つまり、第三者になる。御本山で大きな法要が勤まるそうなと、見物人でしかないことになってしまいます。  (池田勇諦)

 

 本当にどきりとしました。大変手厳しいご指摘だと思いますが、大変大切なご指摘でもあると受け止めています。私が慶讃法要に込められた願い、その願いを受け止めるということが、もし抜け落ちてしまえば、つまり先ほどから縷々申し上げている通り、人間に生まれて、そして教えに出遇うという、このことがもし私から抜け落ちてしまえば、それはもう慶讃法要は私には関係がない。本山で大きな法要が勤まるらしい、見物に行こうかということになってしまう。

 厳しいといえば、本当に厳しい言葉ですが、愛がこもった言葉と受け止めれば、本当に大事なことを私たちに教えてくれている言葉ではないかと思います。

 あなたの為の法要なのですよという、そういうことです。今を生きるあなたひとりのために開かれる法要、それが慶讃法要なのですよ。だから本山で大きな法要が勤まるらしい、ひとつ見学にでも行くかということではないのだ。

 ここに私は大事にしたい点として、「一人ひとりの慶讃法要を」ということを大事にしなければならないと思います。

 私たちは、同じく人として生まれて、もちろん名前も違うし、環境も違うし、生きた歴史も違いますが、縁が熟せば、時に苦悩と呼ばれているようなものを抱えるのも私たちの身の事実だと思います。

 出来れば避けて通りたいところですが、いろいろなものを抱えるのが私たち人間。それは一番目で見た通り、人は苦悩を抱く。しかし、それだけではなく、苦悩を抱くがゆえに、もがく、求める、探すという心も私たちの中に芽生えているのではないかと思うのです。人は西に向かうのです。

 私のお寺のことでいえば、ある男性の方が、様々な出来事に出会って、おばあさんのうしろ姿を思い出して、浄土真宗のお寺を訪ねてきたという方もおられました。病いを抱え、どうしたらいいのだろうと散歩している時に、教えの言葉が響いてきたという形で、門を叩かれた方もおられます。

 問題は抱える。しかし、それだけでは終わらないのも人間。もがくし、探すし、求める。それで思いもかけずに親鸞聖人からの風に吹かれるということが、私たちに起こるのも事実ではないかと思うのです。そういう時が慶讃法要という時ではないかと思います。

 ここから先は、私の慶讃法要への個人的な思いなのですが、2023年に御本山で慶讃法要が行われます。私は東京教区に所属しておりますが、東京教区も2025年、つまり本山から遅れること2年、春に教区としての慶讃法要を勤めようということになりました。今実行委員会が立ち上がって、4つのプロジェクトに分かれて、動き始めています。

 テーマは、親鸞に出遇う。そして山陽教区と同じなのですが、教区のものが定期的に法話をしていこうという計画が進められています。オンラインYouTubeで「定例法話配信」という企画です。たどたどしくてもいいから、僧侶が、あるいは門徒が、自分の受け止めた教えを表現していこう。こういう空気を作ろうという動きです。

 あるいは子ども慶讃法要をやろう。しかもそれは、すべての人が、今の東京教区を形作っているすべての人が参画・協力して、子ども慶讃法要を創ろうとしています。

 その動きの願いは、ふたつです。ひとつは、子どもたちの記憶に残る催しを創っていこうということ。そしてもうひとつは、この企画に若い世代の方々に参画してもらおうということです。今その準備が少しずつ始まっているところです。

 その後、私は自坊で慶讃法要を勤めようと考えております。

 それは前々から思っていたことであったのですが、コロナになってちょっと考えが変わりました。もう二年三カ月経ちますが、私のお寺ではまだこういうふうに人々が一堂に集まって、お勤めをして、法話を聞いて、あるいは向こうに席を移して食事を共にしてお酒を飲むということが出来ていないのです。その間に、来られなくなった方もいるし、お亡くなりになった方もおられます。

 しかし、新しくお寺にいろいろな形で来られる方もいる、この場を愛した人もいる。その方々に、背中を向けることはしたくない。その方たちが愛してくれた聞法の場というものを、再編成して、人間関係を新しく紡いでいくという、それがコロナを生きた私の宿題ではないかということを思っています。

 だから日はまだ決められませんが、コロナが恐ろしくなくなった暁には、コロナがこんなに恐れる病気ではなくなった暁には、コロナによって見失ってしまったお寺の法座というものを、再構築するための慶讃法要というものを、勤めていくべきだと感じています。

 私は今六三歳になるのですが、次の御遠忌は蓮如上人の五五〇回忌、2048年です。その時、私は八九歳、たぶんこの世にはいないと思います。

 いつまで生きられるか分かりません。明日かもしれない。私が元気なうちに、やらなければならないことは、コロナによって見失ってしまった浄土真宗の空気というか、風に吹かれていく場を、具体的に表現し、創造していくということ。それはコロナの時代を生き抜こうとしている私の大きなテーマではないかと思う次第です。

 

 

本願は悪世に光る

 いろいろな言葉が浄土真宗の中にはあります。親鸞聖人もいろいろな言葉を残されましたが、それだけではなくて、その言葉に出遇った、その時代その時代を生きた方々が、自分なりの表現で、いろいろな言葉を届けて下さっています。今日も藤森教念さんの言葉、あるいは坂東性純先生の言葉をご紹介しましたが、もうおひとり、仲野良俊先生、この講演会にもかつて来られたことがある先生ですが、仲野良俊先生の言葉をご紹介したいと思います。今から三〇年前にお亡くなりになられ、この教団の教学研究所の所長もお勤めになられた方、親鸞聖人の教えに熱く生きておられた方の言葉です。

 

世の中が、悪世であればあるほど
本願は光ってくるのです。
    (『正信念仏偈講義Ⅲ』 仲野良俊)

 

 これは正信偈講義の中にある言葉で、源空章、法然上人のことを書かれている『正信偈』の最後の方の言葉を解説されたものです。その言葉は、「選択本願弘悪世」という言葉。

 本願。あなたを決して見捨てはしない。必ず救うと誓われた本願。選び抜かれ選択された本願は、弘悪世、弘はひろまるという意味、悪世は悪い世。だから悪世にこそ本願というのはひろまるものだと、仲野先生は語られました。

 もう先生はおられません。しかし三〇年以上の時を超えて、ある日突然その言葉を目にしたときに、私は言葉が光ってると思いました。

 悪世ということがピッタリの世の中なのではないでしょうか。コロナということによって、人々は様々な制約を受け、生きづらさを抱えています。学校に行けなくなった小中学生が、19万人ということが報道されていました。小中学生ですよ。19万人、過去最多。

 私もお寺で子ども会をしており、20人ほどのメンバーが子ども会にやってきていますが、その中の小学校の六年生の男の子が、去年から学校に行けなくなってしまい、お母さんから悩みを、こういう状況なのだということをお聞きしています。でもどうすることも出来ません。だからしばらくの間お寺に泊まり込みで来るようなことも計画してみたらどうかということで、妻とも話し合っているのですが、どうにもできない。

 何が言いたいのかというと、19万人の子ども一人ひとりが、いろんな理由があるにせよ、学校に居場所が見いだせない。家にも居場所が見いだせない。そして部屋に閉じこもっている人がいる。

 あるいは、小中高生で、自ら命を絶った人が一昨年度415人。小中高生という死とは最も無縁な存在であるべき人たちが、自ら命を絶っていく、415人。過去最多ということだそうです。

 だから、コロナということによって、生きづらさを抱え、様々な孤独を抱えている、そういう時代を、今私たちは迎えている。悪世といってもいいのではないでしょうか。

 生きる希望が見いだせない。居場所が見いだせない。そのように叫び声をあげている人たちがおられる。見えないけれど、おられる。

 そして武力を自分の力と勘違いして、その武力で正義の名のもとに、平気で人殺しが行えてしまえるという過ちがある。これが世界を覆っています。

 ウクライナに平和というのは当然のことですが、その支援策として、武器をウクライナに送るという動きもあります。支援金を送るという動きもあります。なにか人間の限界というか、「兵戈無用」とは言い切れない。「兵戈無用」というのは、『仏説無量寿経』の中に説かれている兵隊も武器もいらないという浄土を表現した言葉ですが、とてもそのようには言えない人間の現実というものが横たわっている。だから、自ら悪世を作り、そのような時代がやってきてしまったわけです。

 しかし、だからもうダメだ、聞法どころではないとなるのかというと、仲野先生は三〇年も前に、悪世であればあるほど、本願は光ってくるのです、と。悪世の現実を変える力は、私たちにはないのかもしれないけれども、いまこそ本願に出遇うときなのだということが、私たちに等しく呼びかけられていることなのではないかと思います。
 「選択本願悪世にひろむ」。これは仲野先生の言葉ですが、原文を読んでみます。

 

世の中が悪世であればあるほど、本願は光ってくるのです。世の中が治まっていても、治まっていなくても、大事なものが本願ですけれども、悪世であればあるほど、本願は光ってくる。人間がどこについていいのか分からない。何に従っていいのか分からない時、初めて本願が一番の頼りになる。 (『正信念仏偈講義Ⅲ』 仲野良俊)

 

 「悪世であればあるほど、本願は光ってくる」 ということは、来年行われる慶讃法要は、この私が本願を感じていけるような歩みを進めていくという時です。ほかならぬ私が阿弥陀さまの本願に遇う、本願に触れる、そういう時が慶讃法要という法要に込められているテーマだと思います。

 

 

本願に遇う

 最後になりますが、九州教区に、旧久留米教区に調和晃麿先生という方がおられます。親しくさせて戴いておりまして、その先生の発する言葉が、私にどんどん突き刺さってくるような先生なのですが、ある時これからこの教団を担っていく若いお坊さんたちに先生が大きな声でお伝えされた言葉があって、それは若い坊さんに届けられた言葉ですが、初老の私にも響いてきた言葉がありました。それを最後にご紹介したいと思います。

 

あなたが この世に生まれ 
生きているのは
唯 阿弥陀さまの本願に
遇うためですよ
どうか 阿弥陀さまの本願に
遇って下さいね
 (親鸞さまからの呼びかけ 調 和晃麿)

 

 このことを大きな声で、若いこれから教団を背負って立つお坊さんたちに説法獅子吼されました。この世に生まれ生きているのは、なぜなのか。なかなかこれは自分では、こたえが出てこない問いではないかと思います。

 生きていれば、いろんなことがある。心に波風が立つこともよくよく起こってくるし、 本来は仲良くなるべき人、出会うべき人なのに、心を通わせて出会えないもどかしさを感じることもあります。

 本日申し上げてきた通り、辛さとか、悲しみとか、苦しみとか、孤独とか、居場所がないとか、いろいろなことを抱えるのが私たち人間ですが、そのようなことを通して、この世に生まれ、生きていろいろなことを感じるのは、阿弥陀さまの本願に出遇うためなのだよ。こういうことを教えて下さった方が、そこにおられます。私はこういう言葉に出遇うと、もちろんひとりの先生がおっしゃっていた言葉ですが、その先生も風に吹かれたのだと思いますね。

 親鸞聖人から吹いてきた風が、いろいろな時代、もちろん親鸞聖人も浄土真宗の風に吹かれた人だ。法然上人もそう。お釈迦さまも。人が風に吹かれて、その風が時を超え、場所を越えて、人間を立ち上がらせて、そして人間を通して、また次の世代に伝わっていくという。こういう風が吹き続けている。それを感じられるようになりたいです。その風を止めてはいけないということを思います。

 2023年に慶讃法要が勤まります。それだけではなく、いろいろなところで慶讃法要が行われると思います。それは、ひとえに私が風に吹かれるための法要なのだということを、一人ひとりが大事に受け止め、時を丁寧に過ごしていきたいと強く感じております。

これで私の話を終らせていただきます。お聞きいただきまして有難うございました。

                                   了

 

 

山陽教区 慶讃法要お待ち受け記念「親鸞聖人讃仰講演会」にて
 日時 2022年5月21日
 会場 姫路船場別院 本徳寺  
 講題 「親鸞からの風に吹かれて」
 講師 酒井義一(東京教区存明寺住職)

 

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親鸞と出遇うお寺
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〇3月20日(水)11時と13時 春のお彼岸法要
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〇4月13日(土)14時~ 樹心の会藤井総代&副住
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