堕ちる地獄は恐ろしく思えども
その地獄をつくる己の心を知らぬ
地獄の食事と極楽の食事
人は、そのいのちを終えると、エンマさまの前に行くと言われています。まずそこで、人々は待合室のようなところに通され、しばらく待たされるのです。やがて人々はお腹が空いてきます。その頃を見計らってエンマさまは人々を次の部屋へと通すのです。その部屋にはたくさんの料理が用意されています。エンマさまはこう言いました。
「この料理を好きなだけ召し上がれ。ただし、そこにあるお箸を使って食べるように。飢えを満たしたものは極楽浄土へ。飢えたままのものは地獄へと堕ちるだろう。」
よく見ると料理の前には1メートルもある長いお箸がおかれていました。腕よりも長いお箸を使って、いったいどうやって料理を食べればよいのでしょうか。人々に動揺が広がり、ざわつきます。するとエンマさまは続けてこう言いました。
「では今から地獄の食事風景と極楽の食事風景をお見せしよう。」
エンマさまが最初に開けたカーテンの向こう側は、地獄でした。人々は先を争うように長いお箸で料理をはさむのですが、誰一人としてその食べ物を口にできる者はいません。そこには、みにくい争いがありました。
次にエンマさまが開けたのは、極楽の食事風景でした。人々は同じように長いお箸を使っているのですが、料理をはさむと自分で食べるのではなく、目の前の人の口にその食べ物を運んでいるのです。お互いに交互に食べ物を与えあっています。そこに豊かでなごやかな食事風景がありました。
人々は安堵します。ああ、あのようにすればよいのか。これで自分は極楽に行くことができる、と誰もがそう思いました。
こうして実際に食事が始まったわけですが、しばらくすると、あろうことか、その中から人々は次から次へと地獄に堕ちていったというのです。いったいなぜでしょう。極楽へ行くための方法は、すでに教えてもらっているというのに。
なぜ人々は地獄へ
地獄へと堕ちる人々には、三種類ほどのパターンがありました。
一つ目のパターンは、ただひたすら待っている、という人です。自分から進んで行動を起こすことはせず、他者が食べ物を口に入れてくれるのを、ただひたすら待っているのです。そして、他者が食べ物を口に入れてくれた時だけ、その相手にも食べ物を差し出すのです。しかし、その存在が目立たないが故、次第に人々はその人の前を素通りします。こうして、その人は誰からも食べ物をもらえず、飢えたまま、人々を恨みながら、地獄へと堕ちていくのです。
二つ目のパターンは、とにかく与え続ける、という人です。自分が食べ物をほしいので、相手の好みや都合も聞かず、とにかく誰彼かまわず食べ物を与え続けるのです。最初はそれでもいいのですが、しかし次第にそのやり方があまりにも自己中心的なので、次第に人々は離れていきます。こうして、その人は誰からも食べ物をもらえず、飢えたまま、人々を恨みながら、地獄へと堕ちていくのです。
三つ目のパターンは、取り引きをする、という人です。今からこれをお前に食べさせる、その代わりお前は俺にこれを食べさせろ、という感じです。一見もっともなことのようですが、お前も俺に食べさせろ、という態度があまりにも高圧的でうさん臭く、次第に人々は離れていきます。こうして、その人は誰からも食べ物をもらえず、飢えたまま、人々を恨みながら、地獄へと堕ちていくのです。
気が付いてみれば、次から次へと人々は地獄へ堕ちていきます。極楽へ生まれる方法はみんな知っているはずのに、極楽へ行ける人は、まったくいません。
自分のすがたを知る
ところが不思議なことが起こり始めます。いったん地獄へ堕ちた人の中から、あらたに極楽へと生まれる人が現れ始めたのです。いったい何があったのでしょうか。
極楽へ生まれる人には、ある共通した点がありました。 それは、飢えたまま、人々を恨みながら、地獄へと堕ちていった人々が、実は地獄へ堕ちる原因は、他の誰でもない、この自分が作っていたのだということに気がついたという一点です。
人は、悪を外に見てしまうのです。あいつが悪いこいつが悪いと、人々を恨んでいたのですが、実は、自分さえよければという自己中心的な心が、地獄へ堕ちる原因であったのです。そして、そのような自分自身を傷(いた)み、悲しむ心がめばえたということが共通した点でした。
こうして自分のすがたを明らかに知った人こそが、新しく極楽に生まれていったのでした。
堕ちる地獄は恐ろしく思えども
その地獄をつくる己の心を知らぬ
他者と出会い
最後に、極楽の食事風景をのぞいてみましょう。
そこには他者との出会いを喜ぶ精神が満ちあふれていました。他者に食べ物を食べてもらうこと、他者から食べ物をいただくことが、喜びだったのです。他者との出会いをなによりも大切にする心が、そこには満ちていました。まさに自利利他円満の世界です。
教えから問われている私
地獄・極楽とは、死んだ後に行く世界なのではありません。今を生きる私が実際に作っている世界だと言われています。
さて私は今、極楽へ生まれるような生き方をしているでしょうか。地獄へ堕ちてしまうような生き方になってはいないでしょうか。
仏教という教えの世界から、静かに私の生き方が問われています。
(おわり)