人は皆、誰もが、道を求めている
日時:2014年5月18日(日)
場所:真宗会館(練馬区谷原)
お話:酒井 義一 (世田谷区・存明寺住職)
生涯をかけてでも、明らかにしなければならない「深いもの」
真宗会館は、人間が生きていくことを学ぶ場所です。どういうご縁で今日は真宗会館にこられましたか。この場所へ来られるまでには一人ひとりのそれぞれの歴史があります。今日まで歩いてきた人生があります。そのことに敬いを込めて皆様をお迎えしようと思っています。
ある方から正直に真宗会館に来るようになった理由を聞いたことがあります。定年を迎えた時にはドライブを沢山しようと決めていたそうです。けれども、「ドライブは飽きるんです」とおっしゃいました。とても印象的でした。温泉旅行、釣り、映画などなど楽しいと思うことは人それぞれです。しかし、人間はその楽しいことだけで満足できるほど安っぽいものではありません。本当に生涯をかけて、明らかにしなければならない「深いもの」に触れなければ、「いのち」が満足するということはあり得ません。それが「人は皆、誰もが、道を求めている」ということなのです。確かなものに「出会いたい」という証なのです。
私は北海道にご縁がありまして、日高地方のコンブ漁師の方と出会いました。その方はコンブ漁師が嫌で嫌で、若い頃に東京へ出て本当に自分の好きなことをやりながら過したそうです。しかし時が経つにつれ、その方は「楽しいけれども、もういい」と思われたのだそうです。何かが足りない。もうこんな生活はいいと、北海道へ帰りコンブ漁師になったそうです。そしてこうおっしゃいました。
「私も63歳になった。両親を見送って、子育てが終わり、私の人生もあと20年。何の意味があったのだろうか」と。私は、その方に人間は意味を明らかにせずにはおれないということを教えていただきました。人間が生きる道を問い尋ねるには、何らかのきっかけが起こるということです。
真宗大谷派のあるお寺の門前にこんな言葉が掲げられていました。
「昔は何もなかったが、何かがあった。今は何でもあるが、何かが足りない」
本当に何が欲しいのか。物はたくさんあるのですけれども、本当に必要なものは何かと問われると、それが何かが分からない。これは貧しさということでしょう。そんなことを現代の問題として感じました。どんなに時代が豊かになろうとも、やはり人間というのは、人間関係の中で悩みを抱くものであります。本当に何とも言えない痛みや空虚さを感じるものであります。人間が抱えるその好ましくないと思えるような様々な問題が「さあ、道を訪ねていこう」という形で実は人を押し出していると、私は教わってきました。
仏教の教えは光に喩えられます。闇を照らすのが光です。闇は私たちの社会のあちらこちらや、私自身の中にあるのです。教えはその闇を様々な言葉で私たちに教えてくるのです。人間は自分を中心にしか物事を見ることしかできません。そのことを「見濁」と言って濁りに喩えられます。人間はこれは「正しい」と自分自身を絶対化し、他者と争ってしまうのです。また仏教では、「地獄」ということが言われますが、何も人間が命を終えた後に行く世界のことではありません。今、私たちが作っている世界を「地獄」と言います。「言葉が通じない世界」とも表現されます。私たちは言葉を操っていますが、本当に相手へ気持ちを伝えていくことができているのでしょうか。源信という方は、「地獄」を「独りぼっち」だとも教えてくださっています。本当に誰とも通じ合えず、まるでこの地球上に私だけかのような孤独感。人間というのはこのような状態を時に抱えてしまうんですね。それを仏教は「地獄と言うのだぞ」と、その姿を照らし出しているということがあると思います。
悲しみ、むなしさ、苦しみ、それらは私を歩ませる促しだった。
人と相通じ合えない。それらは私を本当に確かな世界に向かって歩ませる促しであったということです。これが、親鸞という仏教者が大事にした一つの大きな世界ではないかと思います。できれば避けて通りたい。けれども、それが促しだったと受け取れるところに大きな転換があるのではないかと思います。人は皆、誰もが、道を求めている。だから、ここに足を運ぶのです。『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。すべての生きとし生けるものの奥底には、仏になりたいという心を宿すということです。それは、どのような在り方をしていても、どのような出来事に出会ったとしても、心の底で誰もが目覚めて生きていきたいのです。仏教が人間を見る眼はここにあります。
悲しみは乗り越えるものではなく、その意味を尋ねていくべきもの。
私は縁あって、「同朋ネット」というボランティアの委員をしています。今は東日本大震災の津波被害に遭った宮城県石巻市、原発から避難している方々が暮らす福島県いわき市へ定期的にお邪魔をしております。人々の声を聞き、一緒に夕食を作ったり、喫茶コーナーや居酒屋コーナーでお互いの思いを届け合うということを、コツコツとやっております。色んなことをお話ししてくださいます。けれども決まって最後に出るのは、「あのことさえなければ」という言葉です。津波や原発事故のことです。故郷も失い、そこにあった日常生活も失い、人間関係も分断させられてしまった。その言葉が出ると私たちは口を挟めません。会話は止まっていってしまいます。故郷に帰ることや日常が奪われてしまった。私たちが想像できないほど、ぽっかりと大きな穴が空いていることでしょう。しかし、ある方は「もう、あのことさえなければと嘆くのは終わりにしたい。あのことがあったからこそ、あのことがあったからこそ新しい世界が開けてきた。そういう生き方をしたい」とおっしゃったのです。力強い決意のような言葉でした。これは福島県いわき市で避難生活をする一人の人の声ではありますが、現代を生きる私たちの心の奥底に流れる願いではないか思います。実は私たちの課題も同じなのです。人生の中の楽しいことも、辛い出来事も、私たちの生きることの中にはあるわけです。
お釈迦さまは「糞掃衣(ふんぞうえ)」という衣を着ておられたそうです。これは托鉢をして、人々が捨ててしまった布を縫い合わせて身にまとっていた衣だそうです。しかし、お釈迦さまは光り輝いていたと言われています。例えではありますが、人間が捨ててしまいたい出来事を捨てずに身にまといながら、光り輝く、そういう生き方があることを私たちに示してくださっているのです。
私は寺でグリーフケアの集いというのを行っております。大切な方を失った人たちが毎回15名から20名お越しになれます。そこで小学校四年生になる娘さんを亡くされたお母さんに出会いました。娘さんの病気は、現代の医学では治療できないけれども、いつか医学の進歩で完治する時代が来ることを、お母さんは生きがいにしていたそうです。しかしある日突然、容体が悪くなり息を引き取られたということだったのです。私は四十九日からご縁をいただき、そちらにお邪魔するようになりました。その時に「この私の悲しみは、どうやったら乗り越えることができるのですか」とお母さんに尋ねられたのです。私は自分の考えでは、まったく応えることができず、親鸞聖人の言葉をご紹介して応えたのです。
「悲しみは乗り越えるものではなく、その意味を尋ねていくべきもの。」
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、「不断煩悩得涅槃」(「正信偈」)という言葉を表されました。現代の言葉を使えば「悲しみは乗り越えなくてもいい」ということだと受け止めています。それは、人間が感じるそのような問題の意味を尋ねていく世界があるのだということを、私たちに教えているのではないかと思います。
人間は、様々な濁りを抱えています。限界を抱えています。しかし人は皆、誰もが、道を求めている。「道を求める」という心は決して枯れないのだということを仏さまは教えてくれているのです。このことを本当に信頼して、私たちは歩んでいく存在だと思っています。「仏教」には人間を包み込むような世界があります。そういう世界を本当にご一緒したいと思います。
ご静聴ありがとうございました。