真宗 大谷派 存明寺

教師修練2016(住職の法話) 

2016年2月、東本願寺の「修練道場」にて行われた教師修練でのお話です。
一週間のうちの5回、朝9時から約60分ほどのお話をさせていただきました。
文責は、すべて酒井義一本人にあります。

 

親鸞聖人に遇う

   ー求道者たれ ともに求道者たらんー

 

       酒井義一(真宗大谷派 存明寺住職) 

 

講義1

 

≪三帰依文唱和≫ ≪総序の文拝読≫ 

 

(口述)おはようございます。お酒の酒に井戸の井と書いて酒井といいます。30年前に前期と後期の修練を受けました。もう修練に来なくてもいいのですが、25年前にスタッフという形で関わりをもつことになりました。今は、立派なフリーになられました〇田先生とご一緒したこともありました。なぜ25年間も来ているのかというと、暇だから来ているわけではありません。この場に魅力を感じているからです。大事な場になっているからです。8日間、お寺の予定をキャンセルして、ここに来ております。楽しさ、快適さとは無縁の場所です。でも、ここには真剣さがあります。生きるということに真剣な人たちがいます。それが魅力ですから、今もこうして身を運んでいます。それを文章にしてみました。

 

1 出遇いと学びのある修練を
私にとって修練とは、大切な出遇いの場所であり、大切な学びの場所である。そんな修練を皆さんが体感するために、二つのことを実践してほしい。
(1)耳をすます
 人の話を一言も聞き逃さないぞと誓ってみよう。するとわかる。それがいかに難しいことかと。人は長い間、人の話をおろそかに聞いてきた。
 しかし、思う。私には聞かなければならない声がある。出遇わなければならない人がいる。今私がすべきこと。それは、耳をすますということ。人の話をちゃんと聞ける人は、必ず自分を語ることができる。だから、耳をすます。
(2)思いを言葉にする
 自分の思いを言葉にすることは、とても難しい。無難な言葉に逃げようとするからだ。でも、話すことは手放すこと。話してみれば、その先に出遇いがある。
「たとえ未熟であり 稚拙であろうとも 粗雑であってはならない」(渥美雅巳)
うまくしゃべらなくてもいい、たどたどしくてもいい、真剣に、そして丁寧にしゃべればいいのだ。雑になってはダメだ。雑に生きてはダメだ。
教師になるとは、人の話を聞き、思いを言葉にできる私になるということ。資格を取るだけで終わってはならない。

 

(口述)スピードは大丈夫ですか。今ご紹介した言葉を仰ったのは、渥美雅巳先生です。長く修練に関わっておられ、道場長をなさっていました。不治の病にかかり、余命いくばくもなくとも、道場を去ることはされませんでした。丁寧に、丁寧に、いのちがけで、道場長のまま亡くなられました。この道場は真剣さを大事にしてきた念仏者の歴史があります。そういうものを感じられるようでありたいものです。せっかくですから、皆さんにも体感してほしいのです。

 

2 人はみな誰もが闇を抱えている
野球選手が逮捕された。その行為は許されない。しかし、そこに人間が抱える闇がある。彼は誰もが注目した現役時代のような生き甲斐が見いだせないと語った。離婚し、子どもたちと別れた。愛するものと別れるという苦しみがあった。そこに人間の抱える闇がある。
タレントや国会議員が不祥事を起こし、姿を消した。そこにも闇がある。それは、人が見ていなければ何をしても構わないという闇。自分さえよければそれでいいという闇。他者の痛みが感じられないという闇。
親鸞は言う。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄13章634頁)縁さえ熟せば、人間はいかなることもしてしまえる。そのような人間そのものを悲しむ親鸞がここにいる。その人もまた、実は深い悩みを抱えていた。

 

(口述)今、申し上げたことは、個人名は言いませんでしたが、最近テレビや報道を騒がせたニュースです。覚せい剤や不倫騒動。なんて馬鹿なことをするのだと思いますが、仏教は自覚の教えといわれています。誰の中にも人間が抱える闇というものがあります。行為そのものがわかるとは決して言いませんが、現役の快感を味わうとそれ以上の生き甲斐が見いだせないのだ、と。愛すべきものと生活したいけれども、人生には別離ということがあります。人間は苦しみや悲しみを抱く。それを解決する術を知らないから、覚せい剤に手を出してしまったのではないか。世間を騒がせている出来事から、実は私が問われているのです。テレビの中だけのことではなく、私にも同じ闇はないだろうか、と。
では、親鸞はどうだったのか。テキスト第4章を読みたいと思います。20頁。

 

<テキスト第4章 本文朗読>

 

3 苦悩する親鸞
親鸞は自分では解くことのできない苦悩を抱き、もがいた。道を探した。救いを求めた。そこに苦悩する親鸞がいる。そして百日間の参籠をした。夢告を受けた。それは夢に出てくるほどまでに問い続けた苦悩があったからだ。真剣さがあったからだ。私を悩ませる人生の問題が、実は私をして歩ませるのだ。そして、苦悩あるがゆえに親鸞は、生きることに真剣であった法然と出会ったのだ。
「自分を悩ませている問題しか 自分を立ち上がらせる御縁はない」(坂東性純)
親鸞は法然に出会った。それは、法然の背後にいる無数の念仏者の救いの歴史に出会ったのだ。出遇いは生きる力となる。そして、親鸞の人生を大きく動かしていった。

 

(口述)夢告というのは、親鸞聖人の人生の中で、大きな転機に訪れます。夢のお告げなんて信じられるかと思うのが現代の私たちですが、これは夢に見るほどまでに、悩みが深かったということですね。そういう親鸞さまです。そこに苦悩する親鸞を感じます。苦悩がある人生はつまらないのでしょうか。いいえ、深い苦悩あるからこそ、そこに響く世界があるのです。どこかに貼ってあった言葉を紹介しましたが、よくよく私たちはそれらの言葉の前を素通りしてしまいます。ふと立ち止まって、言葉の響きを味わうということは、実は大事なことなのです。私を悩ませる問題は避けて通りたいのが人情ですが、課題が人を歩ませるのです。

 

4 靖国問題から問われている私
昨日の感話に、靖国問題とはいったいどのような問題なのかという声があった。そのことを4つの言葉で考えてみたい。
(1)閉鎖性:それは狭いということ。広くて深い世界を見失って、自分たちのことしか見えないということ。
(2)差別性:それは、人を人として見ないということ。相手の人間性を無視すれば、私もまた人間でなくなっていくということ。
(3)独善性:それは、私こそは正しいということ。私以外はみんな間違っているということ。人間は独善の名のもとに人と争い、孤独に沈んでいく。
(4)排他性:それは、そこからのぞかれる人がいるということ。踏みつけにされた人の悲しみも見えなくなるということ。
靖国問題とは、そのような質をはらんだ問題。どこか遠くの話ではない。私が靖国を問うのでもない。靖国問題から私の生き方が問われているのだ。お前はどうなのか、と。

 

(口述)靖国問題は言うまでもなく、東京九段にある靖国神社から起こった問題です。靖国神社に行ったことのある方はいますか。スタッフも含めて10名程度。靖国神社の隣にある遊就館に入ったことはありますか。ちょっと減りますね。神社そのもののもつ問題もそうですが、展示館とセットにして、海外からも問題にされています。
遊就館は先の太平洋戦争で日本がいかに勇敢に戦ったのかが展示されています。兵隊さんの手紙が展示されています。何気なく見ているとジーンとくるものがあります。しかし大事なことが抜け落ちています。被害を受けた方々です。日本が戦争に行ったことによって、どれほどの人がいのちを失ってきたのか。
4つの言葉を出しましたが、『靖国問題学習資料集』の90頁に出ている言葉です。『信の回復』で言えば、32頁です。和田稠先生の言葉です。最後の3行に書いてあります。和田先生のご指摘を真摯に受けて一人ひとりが考えていく必要があります。靖国神社のもつ問題もありますが、お前はどうなんだということを私たちも問われていることを強く思います。

 

5 空しく終わりませんように
「前期はバタバタ、何も学べなかった」という感話があった。そんなあなたに一つの言葉を紹介したい。「一日の空過はやがて一生の空過となる」(金子大榮)。今日を無駄に過ごすことは、やがて一生を無駄に過ごすことに通じる。
親鸞は言う。「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(高僧和讃490頁)。悩みや濁りのある人生が無駄だというのではない。悩んだこと苦しんだことが、空しく終わっていく人生は、誰もが耐えられないというのだ。修練も残すところあと6日。空しく終わりませんように、確かなものに出会えますように、そんな心のこもった私への呼びかけを聞いていこう。

 

(口述)アンパンマンの歌がありますね。やなせたかしさんでしたか。あの歌が東日本大震災以降、被災地でよく歌われました。意味がわからないまま終わる、そんなのはイヤだという心。空しく終わる人生はイヤだという心ですね。空しく終わっていくことは悲惨なことです。生きても、生きても、生きたことが確かなものにならない。こんな人生は誰もがたえられないはずです。自分の中に濁りがあるけれども、だからと言って空しく終わることにはならない。そこに親鸞聖人の仏道があると思います。聖人の教えがあれば悩まないのではなく、悩みに向き合って生きていけるということです。

以 上

Sakura


講義2 

 

≪三帰依文唱和≫≪総序の文拝読≫

 

(口述)おはようございます。今日もはりきって全文筆記に取り組んでいきましょう。

 

1 仏法を聴聞するとは
 教えを聞くことを聴聞という。聴とは「往きて聞く」つまり、努力して、集中して教えを聞くということ。一方、聞とは「来たりて聞こゆ」つまり、聞こえてくる、言い当てられるということ。
 耳をすます。すると聞こえてくる、私を言い当てる言葉が。教えを聞くとは、私を言い当てる言葉に出会うということ。あなたは、どんな言葉に出会ってきましたか。

 

(口述)この聴聞ということですが、「聴」は自分から進んで聞いていくことです。「聞」というのは、向こうから言葉がやってくる、聞こえてくるということです。こういう二つの意味をもつ言葉、これを大事にしてきた歴史があることを忘れないでください。
(口述)私が22歳の時に、大谷専修学院で初めて親鸞聖人の教えを聞きました。2年間いました。そして寺に戻りました。24歳の時に、自分の思い通りにならない出来事が立て続けにありました。暗くなってしまいましたが、暗い自分を見せたくないので、明るく振舞っていたのです。しかし、両肩におもりがのしかかったように生きづらさを感じていた時期が相当長くありました。三重県の榊原温泉に研修で行った時に2年間お世話になった先生がいて、たまたま2人になった。「酒井、その暗さはどこからくるのだろうか。」と言われました。ドキッとしました。自分は暗さを隠していたから。すべてお見通しだと感じました。先生は続いて、「暗いということはどこか自分の生き方が間違っている証だぞ。」その次です。「その暗さを大切にな。」こうおっしゃったんです。
私はそんな言葉、24年間聞いたことなかったですよ。うれしかったですね。今でも忘れられない、そういう言葉です。

 

2 私の出会った大切な言葉
先生は見透かすように私にこう言った。「その暗さを大切にな」そんな言葉、今まで聞いたことがなかった。明るくなれない自分を、そのまま認めてくれた。背中を押された気がして、とてもうれしかった。涙が出た。
なぜこの人は、固く閉ざしていた私の心にすっと入り込み、こんなにも温かい言葉が言えたのだろうか。先生に影響を与えたという親鸞その人がとても気になった。親鸞の教えを学んでみたいと心底そう思った。
私ははたして親鸞に出遇えたのか、はっきりしないものがある。でも、これだけははっきりと言える。私は、すでに親鸞と出遇ってきた人たちと、確かに出会ってきた。その人たちの中に、今も親鸞は生きていた。今も生きてはたらく「宗祖親鸞聖人と遇う」、皆さんはどうですか。どんな人に出会ってきましたか。

(口述)私は寺の長男に生まれました。子どもの頃から「坊主丸儲け」と言われて、いい気がしていなかった。本当に学んでみたいと思ったのは、その言葉なんです。初めて親鸞という人に出会ってみたいと思いました。「その暗さを大切にな」と。仏教用語ではないかと思いますが、普通は暗さをなくそうとします。でもその言葉は違った。今でもその状況ははっきり覚えています。
(口述)ここで親鸞聖人と法然上人の出会いをたずねていきたいと思います。

 

<テキスト第5章 本文拝読>

 

3 本願に帰す―出会いは生きる力(第5章)
親鸞は今までに出会ったこともない人に出会った。法然である。その時親鸞は、この人のように生きていきたいという心をいただいたのだ。その人の語る言葉や姿勢に、身が震え、感動したのだろう。その言葉とは、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(歎異抄627頁)、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」(末燈鈔603頁)これは親鸞が出会った大切な言葉たちだ。そこに親鸞の熱い感動がある。流した涙があったのかもしれない。耳をすます、つまり、仏法を聴聞する親鸞がここにいる。
やがて親鸞は、自分の思いを自分の言葉で表現した。
「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」(教行信証399頁)
「曠劫多少のあひだにも 出離の強縁しらざりき、本師源空いまさずは、このたびむなしくすぎなまし」。(高僧和讃498頁)
そこに自らの思いを言葉にして表現する親鸞がいる。
私があこがれる親鸞。それは聞くということをとても大事にした「きくひと」(一念多念文意545頁)親鸞。そして語るということをとても大事にした「今現在説法」(阿弥陀経126頁)する親鸞。親鸞は死んでなんかいない。言葉となって今も生きている。

 

(口述)ちょっと前にお寺でお葬式がありました。80歳になる女性がお亡くなりになった。そこのお嫁さん、50代後半の方とお話ししていました。ずっと看病していたのですが、亡くなる時に、ちょっとお嫁さんが呼ばれて、固く握手をしたのだそうです。そして、「今まで本当にありがとう。おかげでいい人生だった」と言われたそうです。喧嘩もしたし、どうして嫁に来たのかと思ったこともあったけれど、今までの人生がこれでよかったのだと思えた、と。その言葉を思い出すと、お母さんのことを思い出して涙が出ると語られました。
人は、いつか必ずそのいのちを終えていくのです。人は死す。しかし言葉はそう簡単にはなくならない。その人が大事にした言葉はそう簡単に死んだりはしません。その女性の中に生きているのです。言葉は今も生きてはたらき続けるもの、そう思います。

 

4 教えは人を通して伝わる
教えは必ず人から人へ、人を通して伝わるもの。教えに出会った人が感動し、その教えが次の人に伝わっていくのだ。経典や聖典があるから教えは伝わったのではない。人から人へ、ぬくもりをもちながら、教えは伝わるのだ。
では、なぜ教えは人に伝わるのか。それは、教えを聞かずにはいられないものを誰もが抱えているからだ。教えに出会わなければ解決できないものを、誰もが自らの内に抱えている。それは、迷い、濁り、苦しみ、悲しみ、不安、孤独。でも、それらがあるからこそ、教えが身に響いてくるのだ。

 

(口述)仏教が伝わって2500年ですが、経典があって伝わることも事実ですが、書物があれば伝わるかというと、そうではない。教えに生きた人がいて、温かなものを手渡されて、そうして伝わってきた。それが2500年です。親鸞聖人からは750年。この歴史の重みを疎かにはできないですよ。
(口述)私への呼びかけを感じ取っていくということをテーマに、今から音楽を聞いてみたいと思います。歌詞をご覧ください。
1番のテーマは悲しみ。人間として生を受けたものは誰もがこの悲しみを抱くものです。今は感じていないという人もいるかもしれない。しかし、それは悲しみをいずれ抱く予備軍に過ぎないのです。
2番のテーマは憎しみ。自分の中に確かにあるものなのに、自分ではコントロールできないものです。たとえば〇〇さん、では今から憎しみをを起してみてください、はいどうぞ。起きませんね。でも、起きなくてもいい時に、カチンとした言葉を言われると、瞬時に憎しみの心が起きるものです。そして他を傷つけ、自らも傷つく。それが憎しみです。
3番目のテーマは絶望。つらい涙。自分の望みが絶たれるということです。思い通りにならないことは、この人生のあちこちにあるものです。ではお聞きください。

 

<『今、いのちに目覚めるとき』試聴>

 

5 音楽に耳をすます
悲しみ、憎しみ、絶望…それらは私を歩ませる促しだった。それらが無駄にならないという救いがある。
親鸞は言う。「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」(教行信証204頁)
つまり、煩悩があるからこそ、それが大きな御縁となって、人は涅槃という深い世界へと歩みだすのだ。

 

6 悲しみを喜びに変えるという過ち
靖国は、侵略という行為を聖戦と呼び、戦死者を英霊と呼び、大切な人を失った悲しみを名誉・誇り・喜びとした。
そのことによって、人間の犯した過ちが見えなくなるということが問題なのだ。それによって人間の罪業性を明らかにしていく歩みは止まり、人は求道心を失っていく。
さらに言えば、悲しみが見えなくなるということも問題だ。悲しみに何らかの意味付けをして、消し去ってしまうのだ。悲しむべきことを悲しめない、その悲しさ。仏さまは今もこう叫んでいるのかもしれない、「その悲しみを大切にな」と。
「求道者たれ、ともに求道者たらん」、その呼びかけを聞く者となることが、修練のいのちだ。求道者とは、誰のことか。それは、他でもない今を生きる私たちのこと。人間はみな求道者なのだ。道が見えなくて苦しみながら、もがいている者を求道者という。「悲しみを大切に」「求める者であれ」。そういう呼びかけが絶えず私に届けられている。あとは、その呼びかけに耳をすますのだ。そういう生きる姿勢をともに学ぼう。

以 上

Nature2


講義3

 

≪三帰依文唱和≫≪総序の文拝読≫

 

1 自分を抜きにしない
人は皆、傍観者になりたがる。自分を安全な場所に置いたまま、問題を眺めては、「あれは仕方がなかった」「〇〇はおかしい」などの他人事の発言になる。なぜだろう。それは傍観者の方が楽だからだ。無難だからだ。自分が傷つかないからだ。でも、それだけで終わってしまうのなら、それは空過だ。
昨日の講義で「資格とは生き方だ」とあった。その生き方とは、自分を抜きにせず、自分のこととして考えていくということ。自分を抜きにしない、そういう生き方を獲得しよう。

 

(口述)昨日、木ノ下先生からお話をいただき、教師資格とは生き方だという言葉がとても印象に残りました。いろんな生き方があると思います。それを自分なりに考えました。今から三つの言葉で表現したいと思います。ひとつめは自分を抜きにしないという生き方。自分を安全な場所において、評論家や傍観者のようなことをやって終わってはだめだぞと言われていると思いました。

 

2 教えられる者へ
資格をとって、真宗の教えを門徒に教える者になるのではない。生涯を尽くして、真宗の教えを学ぶ者になるのだ。
法話とは、自分が出会えた言葉を紹介することから始まる。自分が何を聞き、何を学んできたのか、そのことを自分の言葉で表現するということだ。
ひとりの教師の真剣な聞法のすがたこそが、他者への確かな教化となる。「自信教人信の誠を尽くす」(しおり)とはそういうことだ。

 

(口述)生き方の二番目は、教えられるものになるということです。私たちは物心ついた時から、知識を覚えて自分のものにして他者に伝えるという教育を受けてきました。ところが浄土真宗の教えとはそういうものでしょうか。違うのですね。ひとりの人間が教えの前にたち、耳を澄ませて生きていく。自信教人信とはそういうことです。
これから法話をする機会があると思います。自分が何を聞いてきたのか。自分が何を教えられたのかを語るのです。聞法者の姿勢が静かな教化になるのです。

 

3 過ちから学べる者へ
人は時に過ちを犯す。過ちをしないことが大切なのではない。たとえ過ちを犯しても、その過ちから学ぶことができる生き方こそが大切なのだ。
この教団はかつて国家に従い、戦争に協力をした。あまりにも大きな過ちを犯した。今、この教団は過去の過ちを隠さずに公にしている。それはなぜか。それは、われら大谷派教師がその過ちから学ぶ者になるためだ。
「静かに己を悲しむ心より 真実の力は生まれる」(武内了温)
過去の過ちを批判するだけで終わるな。過ちを悲しむ者になれ。過ちから学ぶことができる者になれ。そのことが今、私に願われている。

 

(口述)木ノ下先生は時系列を逆にしながら、大谷派の歩んできた歴史を確認されました。資料集があります。映像もあります。教団の歴史は、これから教師になる人には隠したいはずです。しかし、この教団はそういう道を取らなかったのです。靖国を手がかりに掘り起し、「非戦決議」を出した。普通は隠しておきたいでしょう。最初から公にしていたわけではありません。隠していてはならないという先輩たちがいたのです。過去の人を批判するためですか。そんなちっぽけなものではありません。そこから学んでほしい。そういう願いが込められているのが靖国問題ですね。

 

4 争いの根にあるもの
国と国の戦争、人と人との争い。その争いの根っこは同じだ。その正体は正しさではないだろうか。3つの言葉を紹介したい。
*「正しさの名のもとに人は道を間違う、人は争う」
(いろんな法座で聞いた言葉を指導がつないだもの)
*「正義を掲げる手が武器を握る」(澤面宣了)
*「人はそれぞれ正義があって争い合うのは仕方ないのかもしれない。だけど僕の正義がきっと彼を傷つけていたんだね」(誰でしょう?修練生の方が知っていると思います。)
当時の人たちは悪いことをしようと思ったのではない。正しいことをしようとしたのだ。正しさを握りしめ、正しさの名のもとに、人を殺した。正しさの名のもとに過ちを犯した。
親鸞の出会った言葉「愚者になりて往生す」(末燈鈔603頁)は、知識が低い愚か者になれというのではない。正しさを握りしめ、他者と争い、自分を正当化し、深い罪を犯し続けている愚かさに気づけということ。愚に帰るということ。そこにこそ私たちが帰るべき立ち位置がある。

 

(口述)人と人、国と国、宗教と宗教が争う時、私が正しいという思いがあります。最初から悪いことをしてやろうというのではないのです。悪をこらしめるために、正義が争いを起こす。胸に手をあてて考えてみてください。正義を握りしめていませんか。聖人が法然上人に出会って、生涯忘れられない言葉として、「愚者になりて往生す」。たぶん、それはその言葉に触れて、ドキッとしたのではないでしょうか。自分を言い当てられた親鸞聖人の温かさがこの言葉には表れているんじゃないかと思います。

 

5 法難 
<テキスト第6章朗読>
昨日まで共に語り合っていた友の首が切られ、血が飛び散った。法然や友や自分が逮捕され、島流しの刑が下された。忘れることなどできるはずはない。そのことを親鸞はこう書いた。
「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」(教行信証後序398頁)
そこに親鸞の心の底からの怒りと、耐えがたい苦痛があることを私は感じる。
念仏を称えれば首が飛ぶ、そのような時、親鸞はどうしたのだろう。国家に従ったのか。自分の身を守るために、念仏を捨てたのか。いや、違う。念仏に生き続けようとしたのだ。それはたとえいのちをかけても守るべきものがあったということ。仏さま、その教え、そして僧伽。そこに三宝に帰依する親鸞がいた。

 

(口述)法難のことはよくご存じだと思いますが、歎異抄641頁を開いてください。<朗読>島流しは8人。鎌倉時代で2番目に重い罪が島流し、一番目は死罪でした。一人ずつ名前が書いてあります。なぜ、『歎異抄』に流罪のことが書かれてあるのか。念仏に生きた人がいたことを、私たちが忘れないためだと聞きました。

 

6 悲しむ親鸞
私たちは過去の過ちによって大切なものを見失った。それは、すべての者を「御同朋御同行」(御文760頁)と叫んだ親鸞の精神だ。親鸞の心だ。
「まったくおおせにてなきことをも、おおせとのみもうすこと、あさましく、なげき存じそうろうなり」(歎異抄641頁)

 

(口述)この言葉を誰に言っているのでしょうか。傍観者になりますか。

 

親鸞は、「いしかわらつぶて」(唯信鈔文意553頁)と蔑まれていた多くの人々を、つまり飢えと寒さに震えて言葉も持たずにうずくまる人々を、同朋として見いだされた。
戦争に協力しながら私たちの教団は、この時親鸞を見失った。親鸞を再び流罪にしてしまったのだ。親鸞を殺そうとしたのだ。とても悲しいことだ。

 

(口述)昨日、木ノ下先生の話を聞きながら、改めて思ったのは、大谷派教団が戦争に協力していく流れの中で、何を見失ったのかということです。法難にあっても決して投げ出さなかった、人々とともに生きていく心を、戦争に協力する形で見失ってきてしまったのではないか。私たちが親鸞聖人を流罪にしたのと等しいのではないでしょうか。親鸞の心に背き、痛みを感じずに生きてきたことに申し訳ない気持ちになります。

 

7 親鸞が待っている
しかし、親鸞は叫び続けている。仏道へ帰れ、そして仏道を生きよと。
親鸞は言う。「浄土にてかならずかならずまちまいらせそうろうべし」(末燈鈔607頁)。親鸞が私の歩みを待っていてくださる。私たちは今も親鸞に待たれている存在なのだ。私を待っている人がいる。だから、早く帰ろう。

 

(口述)今日は、7つの点でお話しましたが、ある先生にこう言われたことがあります。法話は最初から最後まで全部を覚えることは大事かもしれないが、それよりも大事なのは、お話を聞いていて、ドキッとしたり、これは大事だなと思ったり、疑問になったりしたことが大事なことだと。そのもとは自分自身にあるからです。自分の心が動かされる、そのところを深めていきなさいと。言葉は覚えて持ち帰ってもらえればいいのですが、自分の身を、生活を通して気になることを深めていくのです。今、私たちが大事にしたいのはその「深まり」です。

                                  以 上

 

Toco Toucan


講義4 

 

≪三帰依文唱和≫≪総序の文拝読≫

 

1 「答え」ではなく「問い」を大切に
ここに来ていろいろなことがあった。あの人にも出会った。この人にも出会った。いろいろな考えにも出会った。でも、肝心の自分自身に出会っただろうか。自分に響いてくる言葉に出会っただろうか。
私たちがここから持ち帰るべきものがあるとすれば、それは何らかの「答え」ではない。自らへの「問い」だ。答えはそれを手に入れた途端、歩みが止まるもの。でも問いがあれば、人は歩きだしていくことができる。座ってはいけない、立ち上がり、歩きだそう。

 

(口述)多くの方が、修練で何かを得て帰りたいと言われる。気持ちはわかります。でも身につけて覚えて帰ると、歩みは止まるものです。本当に持ち帰るものがあるとすると、それは「お前はどうなんだ」「それでいいのか」という問いかけではないでしょうか。人間はすっきりしたいから答えを持ち帰りたがるのです。

 

2 学んだことが生きる力にならない
昨日の班報告に「真宗の教えを学び、知識は増えた。でもそれが、生きる力にならない」とあった。学んでも、学んでも、表情がさえない。力が湧かない。それは真宗を学ぶ者が突き当たることなのかもしれない。私もそうだ。
今、大事にしたいことは「生きる力にならない」というその思いである。それは自分の学びがどこか間違っているというあかし。自分の聞き方がどこか間違っているというしるし。だから生きる力にならないという、その現在地を大切にしてほしい。私が出会った言葉を紹介したい。「その暗さを大切にな」。

 

(口述)私自身も、浄土真宗の教えを学んでも表情がさえないということに苦しい思いをしてきました。活き活き生きる教えを聞いても、生きる力が湧いてこない。「暗さを大切にな」という言葉をかけてくださって、びっくりしたんです。あれから30年経って、何度かその先生とすれ違ってはいたんですが、2年前に大きな会合があった時、ご一緒した。夜、お酒を飲む機会があったので、実は30年前に言われた一言が自分にとって大きかったんだと、有難うございましたと初めて御礼の気持ちをお伝えできました。すると先生が、「ああ、あの言葉か、あの言葉は俺が若い時に先生から言われた言葉なんだ。」と。先生もそれを言われたのだ、と。その時思いました。人から人へ教えが伝わるということがあるんですね。
生きる力にならないという声があった。それを大事にしてほしいと思います。それはどこかが間違っているぞという証ですから。どこかの誰かに、どうやったら生きる力になるんですかと聞くのではなくて、そういう思いを大事にしていく。そういう独立者の誕生です。

 

3 聞く、考える、語る
五郎丸ポーズのように、大谷派教師にもルーティン、つまり生活様式がある。それは、「話をちゃんと聞く」ということ。そして「自分の思いを言葉にする」ということだと語った。しかし、実はその間にもうひとつ大切なことがある。
それは、「何が自分に問われているのかをじっくりと考える」ということだ。修練の中だけのことではない。自らの生活の現場で実践をするのだ。修練はそのための練習期間。練習だけで終わってしまうのか、本番が始まるか。
「聞く・考える・語る」。真宗が長い歴史の中で大切にしてきたことだ。大事にしよう。忘れないでいよう。そして、実践しよう。

 

(口述)私が学んだのは、聞法・学習・伝達。これが浄土真宗のルーティンだと。法を聞くこと、考えること、表現すること。親鸞聖人の生涯をたずねると、聖人もやっぱり聞いたんですよね。『教行信証』もほとんど引用です、引用と言ったら怒られるかな。出会った言葉です。そして親鸞は自分に問われていることをじっくり考えて、御自釈を書かれた。親鸞聖人のルーティンです。そのルーティンを、我がルーティンにしようじゃありませんか。

 

4 壁はやがて扉にかわる
班報告に「教えを聞いて救われたい」「私は救われたいんです」とあった。切実な声だと思った。真宗における救いとは何だろう。すっきりすることだろうか、苦しみがなくなることだろうか。
「人生が愚痴の対象になるか、それとも道場として受け取れるか」(仲野良俊)
自分の人生が愚痴で終わってしまうのか、それとも様々な出来事が大きな縁となって生き方を学ぶ道場となるか。起こった出来事に変わりはないが、愚痴と道場では、その生き方はまったく違う。
たとえ、どんなことが起ころうと、そこから生きることを学んでいくことができる者となる。それが真宗の救いではないか。行く手を阻むかに見えた壁に、教えの光があたれば、壁そのものはなくならないが、壁はやがて扉に変わる。

 

(口述)教えを聞いて救われたいという報告を複数の班から聞きました。その発言の背景にそれぞれの人生があるんだと思います。人間というのは、必ず、自分の思うように生きていきたいと思うわけです。ところが時として、思いもよらない出来事に出会う。行く手を阻む壁のような現実が、生きることにはセットとしてついてくる。その壁を、浄土真宗がきれいにどけてくれて歩むようにしてくれるのか。そうではありません。壁はなくならないのです。起こったことは帳消しにできない。でもその壁に光が当たれば、広い世界、深い世界に出あうことができるというのです。

 

5 出会い直す
昨日の感話に「戦争に行った祖父がどう生きたかったのか。何を願っていたのかを聞いて来なかった」とあった。また「言葉に囲まれた生活の中で、出会っているのに見過ごしてきたものがあったのではないか」とあった。頷くものがあった。私も同じだ。年老いた母と出会っているか、妻と出会っているか。
話を聞かなければならない人は私のすぐ近くにいる。出会い直さなければならない人は、私のすぐ近くにいる。出会ってきたつもりの人と出遇い直す。
きちんと出会っていなかったという思いを、枯らさずに抱き続けること。それを大切にしたい。私の中の痛みが、私を前に押し出すのだ。

 

(口述)81歳になる母と同居しています。髪も真っ白、背中も曲がって、忘れることが多くなった。実の親子なので遠慮がありません。留守中に電話があったらメモするように言っているんですが、たとえば「本願寺から電話があった」とメモしてあって、「本願寺の誰?」と聞いても忘れていることがある。忙しくてカリカリしている時に怒ってしまうことがあるんです。ある時、弟が家に遊びに来て、夜一緒にお酒飲んでいると、「おふくろが兄貴のこと怖いって言っていたぞ」と。ドキッとした。母親をそんな風に思わせていた。
母親と何年あと一緒にいれるかどうか。なるべく話を聞くようにした。そうすると、戦争体験を語るようになった。新潟に疎開している時、本当に邪魔者扱いをされて悔しかったんだと。初めてそんな話を聞きました。幼いながらみじめな思いをした。それが忘れられない、と。本当に、普段出会っているはずの人と出会い直すということが大事だと、生活の中で感じています。

 

6 新たな出発点とする
班報告に「前期修練を終える時これをやろうと思った。でも出来なかった」とあった。正直な話だ。では、後期修練はどうなるのだろう。遠い先の話ではない。明日からの話だ。
何かが自分の中で新しく始まった、そのことだけが、あなたが修練を受けた確かな証となる。その責任者は、他ならぬ自分自身。誰も代わることはできない。現場には誘惑がいっぱい。せっかく芽生えた気付きや問いが、いとも簡単になくなってしまう世界へと、私たちは帰っていく。
 「終点は新たな出発点となる」。
私たちの修練が終わろうとしている。そこが終点となるのか、そこから出発していくことができるのか。そのことが静かに、そして確かに問われている。私の歩みはいつでも、はじめの一歩。逃げてはいけない。座ってはいけない。立ち上がり、歩きだそう。

 

(口述)今日のお話はいくつかの誓いを立てて臨みました。昨日の班報告を聞いて、未熟ながら、私が感じたことを自分の言葉で話そうということ。なるべく聖典の言葉を使わないようにしようということ。そして、ノート整理や自習学習がしやすいように、50分で終わろうということ。私が話し始めて49分40秒です。終わります。

 以 上 

Garden

 


講義5 

 

≪三帰依文(パーリ語)唱和≫≪総序の文拝読≫

 

1 修練のあたたかさ
修練の生活はとても厳しい。朝から晩までぎっしりの日程。でもその場にあたたかさを感じている。私の話を聞いてくれる人がいる。自分の思いを私に届けようとしてくれる人がいる。こんな場は、世間にはあまりない。刺激を受ける。よし自分も、と思う。人は場に出会い、場の持つ力に出会い、心開かれていく存在ではないか。

 

(口述)私は24歳で自分の生まれたお寺に帰りました。浄土真宗の世界、雰囲気に触れたというのが大きかったです。自分のお寺は、当時何もしていなかった。大谷派の先輩たちが様々な活動しているのを見て、自分もやろうと思った。お寺でいろんな会合が開かれるようになった。月に一回、同朋会。子ども会。グリーフケア、親しい人と死別した遺族だけの集い。妻がやる気を出してきて、最近子育てサロンやこども食堂というのが始まった。
最初は大変なんじゃないかと思っていたが、今の正直な気持ちをいうと、おもしろいですよ。修練みたいに厳しくないですけれど、やっていること、目指していることは、修練で学んだことを自分なりの方法でやっていくということです。
何が言いたいかというと、修練に温かさを感じています。もしこういう場所が自分の生活する場所にあったなら、どれだけ人は力強く生きていけることかと思います。もし温かさを感じた人がいたら、その人の責任で、こういう場所を開けばいいんですよ。

 

2 ひたすら歩む人がいた だから人はようやく歩める
師や友は自分が作るものではなく、私に与えられるもの、賜るもの、現れてくれるもの。一昨日、われらが〇田フリーが紹介してくれた言葉を一緒にかみしめたい。
「弟子の準備ができれば 師があらわれる」(ラマ経 チベット仏教の経典)
さらに言葉をもうひとつ。
「ひとりじゃない、苦悩を抱き、ひたすら歩む人がいた。求道はどこまでもひとりの歩みだが、人は、大いなる促しと導きによってようやく歩めるのだ」

 

(口述)まず私がいて、私が師や友を選ぶのだと思っています。これが普通の考え。そうではないんですよ。自分がいろんな問題を抱えながら歩んでいる。どうしたらいいんだろうという問いがある。そのときに、師や友が向こうから現れてくれる。あんまり意味がわからないでしょう。でもそのことをこの一週間で体感したんじゃないですか。今日から本番がはじまるんですよ。
人間はやっぱりいろんなことに悩みますから、なんで自分だけこんな目に遭うんだとか、一人ぼっちだと感じますよね。でも目を開いてみたら、自分より先に、自分と同じようなことを感じ、立ち上がって歩いている人がいる。その促しと、教えの世界からこっちにこいという導き。そういうものでようやく人は歩めるのだと思う。

 

3 未熟であり続ける
あえて未熟であり続けたい。自らに未熟という自覚があれば、人はいつだって学ぶことができる。完成されてしまえば、学びや歩みは止まる。うさんくさいだけだ。親鸞は生涯学び続けた。「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(歎異抄628頁)。生涯学ぶ者として歩み続ける親鸞。私も親鸞の様に生きていきたい。
「いつまでも純真なれ いつまでも未熟なれ いつまでも持続せよ」(谷大児童教化研究会)

 

(口述)未熟という言葉はあまり良い意味では使われないが、あえて、未熟であれと。あえて未完成であれと。完成されてしまうと学ぼうということを忘れて、教えてやろうという場所に立ってしまう。でも、教えてやろうという人の言葉は聞けない。うさんくさくて、においがぷんぷんする。学んでいる人の言葉は温かいですよ。
「粗雑であってはならない」という渥美先生の言葉を皆さんに紹介しました。レポートにそのことを書いている方もおられました。それを読みながら、私は先生のことを思い出していました。先生は今、おられないのですが、先生の言葉を多くの人が受け止めている。そのすがたが尊いなあと思います。先生が大事にしていた心が修練を受けにきた人に伝わっていることを強く感じます。

 

4 たとえ私が忘れても
修練でいろいろなことを感じた。この先私がたとえそれを忘れ、座り込んだとしても、決して私を忘れないものがある。それは私を照らし続ける光。教え。教えは、ずっと私を照らし続け、私を待ち続けている。そのことを忘れない。忘れたら、思い出す。
「私が阿弥陀さまに背を向けても 阿弥陀さまは私に背を向けない」

 

(口述)レポートで、これから私はこういうことを課題として持ち帰りたいという方がおられました。私はそれを信用します。でも人間は楽な方に進む癖があります。せっかくの課題がいとも簡単に、まるで何事もなかったかのように忘れ去られることがあるわけです。でも、忘れても課題は残るんです。「聞くことができなかった」「自分を抜きに話してしまった」、そういう課題は少しも解決していないんです。だから、忘れても思い出せばいいんですよ。

 

5 すでにこの道あり(教行信証220頁)
 歩むべき道が見いだせず、悶々とするものよ。真宗の救いとは、道に出会うということだ。道が見いだされれば、人は歩みだすことができるのだから。
「救いとは 私が歩むべき 道に出会うということ」

 

(口述)修練で、浄土真宗の救いとは何かと。いろんな言葉で教えられているわけです。今は、歩むべき道に出会うことなのだという言葉を紹介します。楽になることが救いなのではなく、道にであうということが救いなのだと。道にであうのですから、あとは歩み始めることができる。いろんな問題や不安がある世の中を、歩み始められるようになる、そういう救いです。

 

6 贈る言葉
私たちの修練が終わる。風は吹いたか。仏道を求めて止まない真剣さという風は、君に届いたか。教師となっていく君よ。風に吹かれて歩み続けた多くの人たちがいたことを忘れてはいけない。歩み続けた人々の歴史が大谷派だ。今度は私がその風に吹かれる時だ。
冬の寒さと共にあった私たちの修練。木々は葉を落とし、まるで枯れたかのようだ。しかし、たとえ冬の風に吹かれても、木々のいのちは枯れたりはしない。私たちは、生きようとするいのちに囲まれている。そして、私の中にも生きようとするいのちがある。
人は課題を抱えながらも、西に向かって歩むものだ。そのような私の歩みをひたすら待っている人がいる。その人の名は、親鸞。裏切りのない歩みこそが、ずっと待たれているのだ。

今日は寒い。しかし、やがて冬は終わる。そして春が来る。寒さは和らぎ、いのちは躍動する。花はひらく。同じようにありたいものだ。私の歩みも。
たとえ座りこんだとしても、風を身に受け、人はやはり立ち上がる。そして、歩きだす。一週間、この場で共に過ごせたことをうれしく思います。有難うございました。課題を歩むなかでの再会を念じています。

南無阿弥陀仏

Frangipani Flowers


 

 

以上、教師修練でのお話でした。

(2016年2月 東本願寺・修練道場にて 文責:存明寺住職)

存明寺の行事ご案内

〇9月30日(土)14時~17時
存明寺グリーフケアのつどい
内容:勤行・お話・語り合い・音楽鑑賞
お話:酒井義一住職 会費:500円

〇10月7日(土)14時~17時
しんらん交流ひろば★樹心の会
内容:勤行・お話・質疑・感想 会費:500円
お話:酒井浩美坊守・藤森喜美子さん(スタッフ)

〇10月28日(土)10時~
報恩講法要に向けておみがき奉仕の日
内容:仏具のおみがき・清掃
※昼食をお寺でご用意いたします。

〇11月2日(木)14時~17時
報恩講のゆうべ
内容:逮夜勤行・感話・法話
講師:堀秀隆さん(来応寺住職)

〇11月3日(金・文化の日)12時~16時
親鸞につどう「報恩講法要」
内容:お斎・法話・報恩講法要・コンサート
講師:きみえさん(真宗門徒)・渡辺一真さん(僧侶・タンゴ歌手)

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親鸞と出遇うお寺
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