真宗 大谷派 存明寺

教師修練2012(住職の法話) 

2012年2月12日から17日にかけて東本願寺内「修練道場」にて行われた教師修練のお話です。 毎朝9時から10時まで、約1時間のお話をさせていただきました。
(対象:大谷大学・九州大谷短期大学) 1610744_636494753132652_3439559982216152200_n


講義1(2日目)  2012年2月12日(日)午前9時~

≪三帰依文唱和≫ ≪総序の文拝読≫

1、今ここで実践してほしいこと

この修練が生涯に二度とない自分自身の大切な修練になるために、2つのことを実践してほしい。 ひとつは、人の話を真剣に聞くということ。一言も聞き洩らさないぞ、という誓いを立てて話を聞いてみよう。親鸞は聞くことをとても大事にされた。いきなり教えを説いたのではない。教えを語る前に「きくひと」(聖典545頁・一念多念文意)親鸞がいる。人の話を真剣に聞くことを今ここで実践してみよう。 もうひとつは、自分の言葉で自分のことを語るということ。聞きっぱなしではだめだ。言葉のキャッチボールをしよう。自分の思いや戸惑いや弱さが表現できればいい。「物をいえいえ」(聖典871頁・蓮如上人御一代記聞書)自分のことがうまく語れない不安もあるだろう。でも、うまくしゃべらなくてもいい。真剣にしゃべればいいのだ。語ってみれば人と出会うことがある。もし、間違っていれば学び直すことだってできる。 このふたつが出会いと学びの修練になるための私の実践課題。だから、どうか今ここで真剣に聞いて、真剣に語ってほしい。あなたの大切な修練なのだから。

(口述)話を聞くことと、聞いたことを聞きっぱなしで終わらせないということは、この修練の7日間だけ大切にしようというものではありません。それは、この修練道場でいろんな先輩方が大事にしてきた真剣さです。この道場のいのちはこの真剣さにある。楽しい修練はいらないと思います。快適な修練もいらないと思います。これは修練だけではなく、750年間、親鸞に御縁のある方々が聞くこと、語ることを大事にしてきた歴史があるのです。私たちもそれを実践課題として、大事にしていきたいと思います。

2、求道者とは誰のことか

誰もが心の奥底で、生き生きと生きていきたいと願っている。輝いて生きたいと願っている。でも、一体どうしたら輝いて生きられるのか。実はそれがよくわからない。 「なんのために生まれて なにをして生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ! なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ わからないままおわる そんなのはいやだ!」(アンパンマンのマーチより) 生まれた意義や真の幸福がわからない。だから人は目先の楽しみや自分だけの幸せに落ち着こうとする。しかし、何かが違う。 大事なことは、わからないまま終わるのは嫌だと叫ぶ心が、実は私の中にあるということ。求道者とは、特別な人のことではない。道が見えないでうろたえながら生きる者、それを求道者と呼ぶのだ。わからないから、人は道を求めて歩きだす。人は皆誰もが求道者。

(口述)求道者という言葉はなかなか聞き慣れないですが、衣を着て聖典に学ぶ(今の皆さんのような)というイメージがあります。私が聞いた話ですが、ある有名な先生が求道者ということをお話されました。修行者のイメージがあると思います、というお話をしている時に、たまたま外をけたたましく、暴走族が通る音が聞こえて、「今通っていった暴走族が道を求めている求道者です」と言われた。人に認めてもらいたい、誰もが振り返るような生き方がしたい。行為の裏側にはそういう心がある。求道者というのは特別ではないという話が印象的でした。

3 大谷派の教師になるということ

教師といっても何をしていいのかわからないという声がある。教師である前に、私は人間。その人間である私には、闇がある。でも闇は自分では見えない。教えはひかりだ。教えはひかりを放ちながら私の闇を照らす。私を照らす教えの言葉を紹介したい。

①あなたは凡夫だ、だから遠くが観えない(聖典95頁・仏説観無量寿経:現代語訳)

人は自分中心にしかものが見えない。自分のことしか考えない。そのため人は時として相手が見えなくなる。足を踏んでも相手の痛みがわからない。踏んでいることすら気づかない。やがて誰とも出会えずに一人ぼっち。遠くが見えないからだ。自分のことしか考えないからだ。そのような私の姿を教えは「あなたは凡夫だ」と照らし出す。それはあなたのことをずっと見ています、という仏さまのあたたかな言葉だ。

(口述)観無量寿経の言葉ですが、皆さんは真宗の教えを深めているのでご存知かと思いますが、お釈迦様はたくさんの悩みを抱えていた韋提希に、あなたは凡夫で自分のことしか考えていない、でもあなたを見捨てない、あなたは人間の代表者だからと言われました。今から2500年前の言葉ですが、我々未来の衆生のために言われたありがたい言葉です。

②三毒の煩悩(聖典354頁)

私の中には毒があると教えは言い当てる。 ・貪欲。それは何かが足りないということ。満足を知らないこと。常に飢えているということ。そんな毒が私にないか。 ・瞋恚。それは怒り。許せないということ。怒りで我を忘れること。自他を傷つけること。 ・愚痴。それは無明。暗くて明るさがないこと。どう生きたらいいのかがわからない。愚かなこと。迷いを言う。 人間のなかにはそんな三毒があることを教えは照らし出している。 大谷派の教師になるということは、教える者になるということではない。様々な毒や闇を抱える私が、教えから言い当てられるということだ。常に教えられ続ける者になるのだ。親鸞もそのような生き方を実践した。「賢い者は学びたがり、愚かな者は教えたがる」

(口述)親鸞聖人が教えられ続ける者に立ち帰られるのです。宗祖ですから常に人に教えを伝えるというイメージがありますが、常に教えを聞き続けられた。主著である『教行信証』は、ほとんどが親鸞聖人の出会ってきた言葉です。「かるがゆえに知りぬ」と親鸞聖人が教えられた内容をご自釈として語っておられます。その精神は教えられる者になるということです。私はこう教えられましたと自己表現しているのが親鸞聖人のすごいところです。

4 真宗同朋会運動とは何か

私が親鸞の教えを聞いて30年。その間、たくさんの人にあった。たくさんの言葉を聞いた。たくさんのことを教えられた。そのことが私にとっての同朋会運動。素直に思う。本当にありがたいことだ、と。 真宗同朋会運動とは、寺を聞法の道場にしたいという願いのこもった運動だ。しかし、寺に同朋会を開くことだけで終わる運動ではない。この私が教えに出会うという運動だ。そして目の前の人をひとりの求道者として見い出すという運動だ。 1月下旬福島に行った。原発事故で故郷(ふるさと)を奪われた人はこう言った。「心の底から落ち着ける、自分の居場所がほしい」。またある人はこう言った。「こうして忘れられていないことが、何よりもうれしい」。心に響いた。そこにいるのはかわいそうな人ではない。生きようとする人間なのだ。人間は、心の奥底で「自分の居場所」や「忘れられていない世界」を願い求めている。とても真剣に。私もあなたも、居場所を求めつづけている。親鸞は居場所を求める人を同朋よ、求道者よと叫び続けているのではないか。自分や隣の人を求道者として見い出す運動、それが私にとっての真宗同朋会運動である。

(口述)私は寺の長男で生まれた。「坊主丸儲け」、とか「はげたか」、と言われ、なぜ寺の長男で生まれたのかということで寺が嫌だった。はじめて親鸞の教えを学んで、今から30年前に修練を受けて、何が何だか分からなくなって頭を抱えて帰って、修練にはもう二度と来ないと思った。その後、いろんな人に出会って、いろんなことを教えてもらって、親鸞の世界に魅力を感じるようになった。まだまだ未熟ですが、今は嫌々来ているのではなく、魅力を感じて来ています。そこに出会いや学びがあるからです。実はそれが私にとっての同朋会運動です。そういう世界があるのです。ぜひ、そういう世界に出会っていってほしいと思います 以 上


講義2(3日目)  2012年2月13日(月)午前9時~

1 私が願いに背をむけても 願いは私に背をむけない

①いのちの願い

生き生きと生きたいなどと思っていないとある人は言う。たとえ私がどう思おうと、その私を支えるいのちそのものには願いがあるという。 それは例えば帰巣性。鳥が夜になると巣に帰るように、いのちそのものは心の底から落ち着ける居場所を求めつづけている。 そして、それは例えば倶會一處性(聖典P129)。あらゆる人々とともにひとつの場所で出会える世界を求めつづける。 そして、それは例えば安危共同性。人々と安らぎを共にし、悲しみや苦しみをも共にできる世界を求めつづける。それがいのちそのものの持つ願いなのだと教えられた。

②願いに背く私

しかし、私はわがままである。自分を中心にしか考えないのだ。だから人はいのちの願いに背きつづける。例えば、心の底から落ち着ける居場所よりも、自分に都合のいい場をこのむもの。人間は快楽が大好き。身を喜ばすことが大好きだ。 そして例えば、あらゆる人々と出会うことよりも、気の合う仲間のみを求め、いやな人は平気で排除してしまう。 そして例えば、悲しむ人がいても、苦しむ人がいても、自分でなくて良かった、自分さえよければそれでいい。あとはどうなってもかまわないと思ってしまう。 人はいのちの願いに背を向ける存在なのだ。

③空しさや不安にはわけがある

私がふと感じる空しさ、これでいいのかという不安、何かが違うという感覚、このまま終わるのはいやだという思い、それらにはわけがある。それは願いに背いていることに気がつけといういのちから私へのメッセージ。願いに立ち帰れという私への促しなのではないだろうか。

2 出会いの大切さ

親鸞は自分では解くことのできない問題を抱えていた。それはどう生きたらいいのかがわからないということ。このまま終わりたくないということ。その時に、法然と出会った。法然は、飢えと寒さに言葉も忘れてうずくまる人に、いのちの願いに立ち帰れ、そして共に生き生きと生きていこうと呼びかけておられた。人々の苦しみや悲しみを見つめながら、共に道を求めて生きることを実践しておられたのだ。 そして親鸞の中にある心が生まれた。それは「かっこいいなあ、オレもあんなふうに生きていきたいなあ」という心。しかし、それは自分で努力して起こした心ではない。先を歩む人に出会うことによって与えられた心なのだ。苦しみや悲しみを大切に体験しながら生まれた心なのだ。出会いはその人の人生を変えていく。出会いは生きる力となる。だから出会いは宝。

(口述)私の事で恐縮ですが、私も僧侶になったばかりの頃に色々なことが起こりまして、それは思い通りに生きられないということでした。具体的に何があったかについては言いませんが、その時に思っていたのは、周りの人はうまく生きているのに何で自分だけこんな辛い思いをしなければならないのかということでした。でも暗い自分は見せたくはないので、人前では明るくふるまっていました。そんなときに真宗大谷派のお坊さんから言われたのは「酒井の暗さはどこからくるのかな。」という言葉でした。そして「暗いのはどこかに野心があるからだぞ」と言われました。そして「自分の生き方がどこか間違っているということだぞ。だからその暗さを大切にな」と言われました。嬉しかったですね。そんな言葉に出会ったことはなかった。「がんばれ、がんばれ、明るくしろ」ということは言われますが、「暗さを大切に」という言葉は今まで聞いたことがなかったです。嬉しかった。何であの人はそんな言葉が言えるのか。かっこいいな、俺もあんな風に生きていきたいな、と思いました。その先生に人徳があったからでなくて、後ろ側に親鸞聖人という人が生きてはたらいている、と今は感じます。そんな出会いが私に知りたい、あの人の背景を知りたいということを引き出してくれたんだと思います。

3 靖国問題を学ぶにあたって

(口頭で物語の読み聞かせ風に)

ここは、南の海です。真っ青な海の真ん中に小さな島がポツンと浮かんでいました。その島には、善良で平和を愛する人たちが暮らしていました。自然と共に生き、つつましくも豊かな生活をしていました。そしてだれもが今を一生懸命に生きようとしていました。島の向こうには、別の大きな島国がありました。ある日、その国にひとりの赤ちゃんが生まれました。男の子でした。その男の子は周りからの愛につつまれながらすくすくと大きく育っていきました。すこし、やんちゃでした。 そんな中この島国のリーダーたちは「自分たちの国をもっと大きく強くしたい。あのちっぽけな島を奪いとってしまおう」と考えたのです。そしてそのような教育を進めました。人々に「あそこ島の人たちは野蛮だ。劣っている。危険な武器をもっているかもしれない。」と教え込みました。少年は周りの大人たちの影響をうけ、あの国は危険だと思いこむようになりました。その少年はやがてリーダーとなり、やがてサル・キジ・イヌという仲間を連れて南の島に攻めていきました。男の子の名前は「桃太郎」といいます。 平和に暮らしていた南の島の人たちは、次から次へと殺されていきました。男が殺され、女が殺され、お年寄りや子どもたちが殺され、何も出来ない赤ちゃんが殺され、宝物が奪われてしまいました。島には言い尽くせない怒りと無念さ・悲しさが広がりました。しかし、その怒りや悲しみはどこにも届きませんでした。それどころか海の向こうの日本という国では、「桃太郎は英雄だ」「正義の味方だ」という言い伝えが、いつまでもいつまでも、そして今でも残っているのです。

皆さんもご存知の桃太郎、そのもう一つのお話です。ある小学生から聞いた物語を私なりにすこしアレンジしてお話しました。桃太郎に殺される鬼の側から見たものです。

①もうひとつの物語

私たちの周りにも、これとよく似たことがいっぱいある。例えば、戦争。「私は正しい」「自分たちは正義の味方だ」と思い込み、相手を悪い奴と決めつけてしまうと、人はどんな残酷なことも平気でできてしまう。人間とはそれほど危ういものだ。正しさの名のもとに人は人を殺してしまえる。 また例えば人間関係。それはとても大切だ。しかし、人はそこで迷う。私の中の自分勝手なものさしがこの人は悪い奴と決めつけてしまえば、相手はまるで鬼のように見えてくるもの。こうして相手を平気で排除し、私はいつでも正義の味方になりたがる。

②真宗を学ぶ者の姿勢

私が大事にしている言葉を2つ紹介したい。
「現実と聖典の間(はざま)に身を据える」(宮城顗)
「さとりの世界へ逃げ込まず、現実に埋没しない」(非僧非俗の精神・日野賢之)
これが真宗を学ぶ者の姿勢だと教えられた。 それは現実の問題をしっかりと知るということだ。私や、教団や、社会の問題をしっかりと見るのだ。世の中に満ちている人々の「いのりにこころいれて」(聖典P568)しっかりと聞くのだ。 そして、なおかつ教えに道を尋ねよということ。教えの言葉に出会い、教えに生きている人に出会い、呼びかけに応えて「ともに求道者たらん」と歩きだす者になるということだ。そのような私の歩みが、ただひたすら願われつづけている。

(口述)いろんな先生からいろんな言葉を聞きますが、忘れやすいので聖典に書くようにしています。そして、繰り返し、繰り返し読んでいます。「現実と聖典の間(はざま)に身を据える」ということは、世の中に起こっていることは私には関係がないとうことではない。世の中で起こっていることも知り、聖典にも触れる。それが真宗の生き方。 また、「さとりの世界へ逃げ込まず、現実に埋没しない」ということは、教えが何よりも大事だと逃げ込むのではなく、教えはそうだが現実はそんな甘いもんじゃないと言って現実に埋没しない。親鸞は非僧非俗と言います。悟りに逃げ込まず、現実にも埋没しない。親鸞が歩んだ道を歩んでいくのです。私もそんな道を歩いていこうと思っています。 以 上


講義4(5日目)  2012年2月15日(水)午前9時~

はじめに

修練に来てたくさんの人と出会った。あの人にも会った、いろんな意見が聞けた、と人は言う。でも思う。肝心の自分自身と出会ったのかと。そのことに是非立ち止まってほしい。 昨日の感話にこんな話があった。「自分のものさしで人を計っている」という言葉に出会い、自分のことを言い当てられてショックと嬉しさを感じた、と。印象に残る感話だった。 また、「他化自在天」という言葉に出会い、「友人を見失った痛みを持ちながら生きていきたい」という感話もあった。自分に向き合う真剣さを感じた。 今、皆さんに改めて呼びかけたい。私を照らす教えに真向かいになろう。私の現実や世の現実に目を向けよう。そのために今の自分を抜きにせず、ねんごろにその人のペースで自己表現をしよう。そんな修練を私の修練にしたいと強く思う。

1 私にとっての靖国問題

①人は問題を外に見る

人は問題を外に見るくせがある。観客席から問題を眺め、問題を評価し、答えを出して落ち着こうとする。靖国問題を学ぶとは、靖国神社を外に見て、反対だ・賛成だと言い合う問題ではない。靖国の抱える課題を知り、何が私に問われ、何が私に願われているのかを知るという問題だ。自分を抜きにしない。そのような学びをすることが、私に求められている。 ②私にとっての靖国問題 靖国は人間を見失うという問題がある。靖国は国の為に戦った260万の兵隊さんを神とした神社だ。しかし戦争で亡くなった人はそれだけではない。沖縄や、広島、長崎など多くの人が殺されていった。また、アジアでは2000万人とも3000万人とも言われる人が殺されていった。そこには、それぞれの人生があったはずだ。そこには、悲しみや痛みがあったはずだ。戦争で殺されていった全ての人間を私たちは見失ってはいないか。 また、靖国は過ちを見失うという問題がある。人を殺す戦争を聖戦と呼び、戦没者を英霊と呼んだ。そのことによって、力で相手をねじ伏せるという過ちが見えなくなってしまったのだ。 この教団も戦争に協力をしてきた。大きなうねりに親鸞の教団が飲み込まれた。この時教団は、人間を見失い、過ちを見失ってしまった。しかし、それだけではない。実は、すべての人々を「求道者よ」、「共に道を求める者よ」と呼びかけた親鸞の精神までをも見失ってしまったのだ。 「前事不忘 後事之師」(前のことを忘れず、後のことの師とすべし)それは、力で相手をねじ伏せるという過ちを忘れず、多くの人々の悲しみを師として、親鸞の精神に帰れ、そしてすべての人を求道者と見出した親鸞の世界を生きよと叫ぶ言葉。人は間違う、その間違いを大きなきっかけとして闇を知り、立ち上がり、道を求めて歩み出すのだ。「求道者たれ、ともに求道者たらん」修練に伝わる、心のこもったこのテーマを今一度皆さんと一緒に噛みしめたい。

(口述)今回、靖国問題学習資料集を持ってきていただきました。私もまだ読みこなしてはいませんが、今の段階で大事だなと思うところを読んでみます。
8頁の2行目、「この資料集の願いは、単に過去の人びとの過ちを並べ批判し、教団の負の歴史を知ることに止まるものではありません。戦没者とその遺族の悲しみにこころを寄せつつ、現在の私たち自身の中にある“あやうさ”を見つめ、真宗大谷派教師としての確かな歩みの縁となることを願いとしたものです」。
それから14頁、「しかし」という段落があります。「しかし、戦争に無残にいのちを奪われた方や遺家族は、悲しみ、怒り、悔しさの中に置かれます。また国家も、人を徴用し戦死させたわけですから、怨みを抱かれ、後に続いて国家の戦争に協力する人がいなくなることを最も怖れました。そのために遺家族の悲しみや憤慨を、戦死したことが名誉なことであり、国の大儀・正義に殉じた光栄あることだったと感じ、国家に怨みを抱かないようにする必要がありました。それで、福沢諭吉が「戦死者の大祭典を挙行す可し」(資料4)と述べているように、戦死に意味を持たせ、名誉あることとされ、肉親の死に誇りを感じるよう、悲しみ怒りを持ち替えさせる仕掛け・儀式が行われたのです。その役割を担ったのが、靖国神社でした。そこでは、戦死した人、国事に殉じた人は、他の人と分けて英でた霊とされました。特別な存在とされたのです。その人々が英霊となる儀式として、神である天皇が拝礼する特別な祀られ方が行われました。そして他人とは違い、天皇の威徳を広める日本の大儀に尽した護国の神として祀られたのです。そのことによって、戦死に光栄と誇りを感じることとなり、戦争で殺された悲しみや理不尽さへの憤りが、ありがたさへと持ち替えさせられることになったことは、参加されたお母さんたちの本音がどうかは別として「誉れの母の座談会」(資料6)によく現れています。」とあります。私はこの中に過ちを見失い、人間の悲しみを見失うということの問題が潜んでいると思います。
52頁、今私たちがいる東本願寺、その正面には「挺身殉国」という言葉を掲げていました。これはほんの一例です。国に捧げろと説いたわけです。全てのものは求道者よと叫ばれたのが親鸞です。
それから、66頁の高橋哲哉さんの講演の一番最後です。「あの日本が行った戦争で命を失ったすべての戦死者を追悼する。その痛みをいま、戦後六十四年にあらためて共有し、その悲しみの中から、今後起こりうるあらゆる戦争に反対する非戦の立場に立つ。」ここに昨日四衢さんがいわれた「念仏者のしるし」「世をいとうしるし」を感じます。
90頁「神社神道が共同体の宗教である以上こうした閉鎖性、差別性を免れることはできません。このことはまた外部に対して独善性、排他性となって働くことになります。」和田稠先生は4つに分けられています。閉鎖性、これは狭い。差別性、人を見失う。独善性、自分こそは正しいということ。排他性、そこから除かれる人がいる。 それから⑩の後ろから四行目、「問題の焦点は、「靖国」の国家護持に賛成するか反対するかというような単純な争点にあるのではなく、真宗教徒であり日本国民である私たち自身の主体的な生き方と、国家の将来が問われているところにあるのです。」これは生き方の問題なのだと説かれます。
92頁後ろから3行目「多数国民の中に民族の業としての「内なる靖国」が生きつづくかぎり…中略…」と、ここに内なる靖国という言葉が出てきます。是非この資料集を読み込んでいきましょう。

2 宗祖親鸞聖人に遇う

①人間の闇を見つめる親鸞

自分の息子を殴り殺した父がいる。幼いいのちが悲鳴を上げたはずだ。人間は残酷だ。初めは躾だった。しかし、言うことをきかないことに腹を立て、暴力を振るった。暴力はエスカレートする。そして、子どもは死んだ。この男は極悪人だと私たちは考える。 教えは、人間の過ちを照らし出す。「強きものは弱きを伏す。転た相剋殺戮して迭いに相呑噬す」(資料集10頁、聖典66頁)、男は力があるから暴力を振るったのではない。暴力に頼らなければならないほど、自信がなく、弱い存在だったのだ。 親鸞は言う。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」(聖典:633頁)縁さえ熟せば、私も人を殺すと親鸞は言う。ここに人間の過ちを悲しみを持って、見つめ続ける親鸞がいる。現実と聖典の間に身を据えるとは、世の現実の向こうにある人間の悲しみを知り、闇を抱える人間が共に救われていく道を訪ねて、教え(聖典)に真向かうということだ。

(口述)私ごとで恐縮ですが、我が家は節電に取り組んでいます。福島の人に出会ったからです。事故を起した福島は東京電力。首都圏をはじめ、私たちの豊かな生活のために使われています。今まで、湯水のように電力を使ってきた。それを見直そうと思っています。我が家には3人の子どもがいます。高校生が2人います。そのうちの娘ですが、ある朝起きていくと、部屋の電気、テレビ、暖房、電気コタツも点いたままです。これはきちんと話さないといけないと思い、節電のことを娘に伝えました。娘は「わかったわかった」「朝からうるさいな」と言いました。私もカチンと来て、言葉を重ねました。頭をこつんとしてしまった。自分でもよく覚えていない程怒り、頭をひっぱたいてしまいました。娘は「暴力を振るうな」と泣きながら出て行った。そこで我に返った。何事かと思った妻や子どもたちが起きてきて、私は居場所がなくなった。 去年の暮、父親が息子を殴り殺した事件を思い出した。私は節電の大切さを伝えたかったのに、口答えをした娘に手を挙げてしまった。私も変わらないものを持っている。心の中に魔が潜む。力あるものは力で相手を押さえつける。「迭いに相呑噬す」とは呑み込んでいくということ。これは悪なんだと教えは呼びかけている。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、私も百人、千人殺す」そういう人間の危うさを教えている。親鸞は悲しみを持って教えてくださっている。私は謝らなければならないと思って、その日の夜、娘のところへ行って「暴力を振るってしまって申し訳ありませんでした」と謝り、一人呑みました。

②宗祖親鸞聖人に遇う

親鸞に遇うとは親鸞の歩んだ道に出遇うということ。道に遇うのだから、やれやれ遇えてよかったと腰を降ろす場合ではない。この私が「座より起ち」(聖典7頁)親鸞の歩んだ道を私の足で歩き始めるのだ。何かが始まったということだけが親鸞に出会ったことの証しとなるのだろう。「浄土にて かならずかならず まちまいらせそうろうべし」(聖典607頁)私の歩みが始まることを親鸞は今も待ち続けている。皆さんは待たれているんだ。

(口述)やはり私を抜きにしないで過ごしていこうということです。私にとっての靖国問題、外に向かって反対かどうかということがここで求められているのではない。靖国を通して私に何が願われているのかを明らかにすることが大事なことです。靖国は人間を見失い、過ちを見失う。そのことによって親鸞を見失う。靖国問題を学ぶことと親鸞聖人の教えを学ぶことを別にしてしまっている。本当にそうなのだろうか。靖国を通して闇を知り、教えに出会って私が道を歩むということをどうか確かめてもらいたいと思います。 以上


講義5(6日目)  2012年2月16日(木)午前9時~

(口述)この修練が始まった2日目に人の話を真剣に聞くということと自分を語るという事を話しましたが、修練生だけでなく修練スタッフが実践しなければならない課題です。そして、何よりも私自身が真剣に聞き、真剣に語らなければならない。昨日の本部ミーティングでお聞きしたこと、私が感じた事を断片的にですがお話ししたいと思います。

○あなたがあなたを生きる

あなたは誰かの目を気にして生きているという。あなたは誰かを喜ばすために生きているという。しかし、それは違う。あなたはたった一度のあなたの人生を、あなたのために生きなければならない。自分の責任で選んだ場所を自分の場所として、あなた自身の人生を大切に生きていくのだ。「いたずらに後悔を貽すこと」(テキスト8頁・聖典184頁)のない道を、探し求めて歩いていこう。

○ひとりを見失う時代

被災地に生きるおばあさんは言う。「逃げる時、孫の手を離した。私が孫を殺した」と。津波のとき、孫の手を離した自分を責め、責任を感じ、深い悲しみと共に生きている人がいる。震災で2万人が亡くなったのではない。ひとりの人が亡くなり、悲しむ人がいる。そのような出来事が、一度に2万件も起きたのだ。そんな一人ひとりの悲しみを見つめる眼がほしいものだ。

○悲しみをなくす者から、悲しみを生きる者へ

人々の悲しみをなくしたり、喜びにすり替えたりするのが人間の救いなのではない。悲しみには様々な姿がある。後悔・自責の念・罪悪感・不安・空しさ・孤独・・・。私がすべきことは、悲しみの姿をちゃんと知るということ。そして悲しみが私を歩ませるエネルギーになることを、人々と共に明らかにするということ。悲しみは簡単に消えない。でもこの悲しみは消さなくてもいいのだ。「悲しみよ お前のおかげで 私は仏に遇う」そんな言葉を思う。

(口述)最後の言葉は昨年の報恩講の時に高倉会館に貼ってあった言葉です。どなたの言葉か分かりませんが。

○自分を守る壁を超えて

しゃべるのが怖い。伝わらないのが怖い。言う前に結果を気にしてしまう、とあなたは言う。それは自分をかたくなに守っている姿だ。傷つきたくないからだ。失敗したくないからだ。だから自分の周りにいくつもの壁を作ってガードする。しかし、その壁が実は私を苦しめているのだ。出会いを妨げているからだ。それは、とても辛い。でも、私の話を真剣に聞いてくれる人がいた。それだけで人は変われる。自分の弱さを弱さとして表現できた時、それは強さに変わる。壁を超えて人と出会う世界を、誰もが心の奥底で求め続けている。とても真剣に・・・。

(口述)春になると菜の花が八百屋さんに出はじめます。なぜか四角に束ねられて、紙に包まれています。あの菜の花を水に放ち、太陽の光に当てれば、まるで体操をするかのように、のびのびと伸びて、太陽に向かって育ち、やがて花が開く。菜の花は、いろんな価値観といろんな壁に囲まれて萎縮している私たちの姿です。包みの中に縮こまっているのが私たち。そこに水が与えられて、太陽の光が与えられれば、花咲く生き方が始まるのではないでしょうか。

○あほあほ会っていいですね

賢さを競い合って追求する世の中に身を置きながら、自らの愚かさに気づいていく道がある、それが浄土真宗だ。あほあほ会になりたいけどなれない私。賢く振る舞う世に身を置きながら、自らのあほあほさや過ち、危うさや闇を知り続けていく。そんな自覚が、私に生きる勇気を与えてくれる。

○疑いつくすという姿勢

昨日、ある人は自らの疑問をストレートに私にぶつけてくれた。その姿勢が何よりも頼もしいと感じた。確かに考えに違いがある。しかし私はその人を言い負かそうとは思わない。共に道を求めるものでありたい。何が私たちに願われているのかを一緒に考えたいと思った。疑いもせず信じ込むことは不誠実だ。親鸞は疑いつくし、疑いようのない世界に出会ったのだ。それを無疑の信という。おかしいことをおかしいと言える姿勢、それを大事に育ててほしい(聖典191頁・303頁)。

○答えを求める者から、課題を生きる者へ

答えを求めるという教育を受けてきた。同じ姿勢で真宗を学ぼうとした。しかし、真宗は、答えを手に入れて何とか落ち着こうとする私のその姿勢を、それでいいのかと問い続けている。私の人生には、不安や空しさや痛みなどの大いなる促しがある。答えを握ると人は眠りこむ。与えられた課題が人を歩ませる。

○人は皆誰もが求道者

求道者たれ、それは教えから私への呼びかけの言葉。人は皆誰もが求道者であるが、自分ではなかなかそう思えない。「求道者たれ」という私への呼びかけを聞いて、初めてそのことに目覚めが与えられる。今度は私が応える番だ。「ともに求道者でありたい」真剣に呼びかけを聞き、真剣にそれに応えるのだ。人は、さあ行こうという促しと、進むべき道はこっちだぞという導きによって、ようやく歩まるのだ。

(口述)今日は何の脈略もなく、8つのことを話しました。以前、先生からこういう話を聞いた。話を聞いて全部を理解しようとするのではなく、自分に気になることがもしあれば、それを深めて欲しい。自分の身に言い当てられたこととか、身に当たることを深めて欲しい。響いたり、言い当てられるのは私の中のものだから。そういう学びが真宗の学び。身に響いた事を深めていく。そのことに注意をして一日を過ごして欲しいと思います。

少し時間がありますので、わからなかった言葉や聞き取れなかった部分はありますか。 修練生:法語の「貽す」は「残す」と字が違うのですが、どうしてですか。
指導:痛いところをつかれました。道場長おわかりになりますか。
道場長:「貽す」は、「遺」と同じであり、あとにのこす、ひきずるという意味があります。                以 上


講義6(7日目)  2012年2月17日(金)午前9時~

高橋フリー:

道場長の講義の中で一人一人の歩みがあったということを話されました。今日、ここまできた。昨日は皆さん遅くまで起きておられたかと思います。私も寝不足の一人です。レポートを読ませてもらいました。真剣に聞くことの難しさがあります。一生懸命、聞こうとしても聞けないことがあります。僕の住んでいるところは大阪の生野区というところで、在日朝鮮人の人が4万人おられます。小さい頃から「朝鮮人は臭い」ということで色々な差別がありました。学校で朝鮮人の人が本名を出したのです。それから差別があった。卒業式の前にその子を囃子立てたことがあります。僕もその中の一人でした。そうすると、僕の親友が「同じように学校に来て、同じ給食を食べて、同じように勉強しているのに、朝鮮人と名のることはどこがだめなのか」と机を叩いて泣きながら話した。恥ずかしかった。真剣にということは、他者、一人の人が一人と見えてこない。在日の方と生活することも増えた。勉強できるようになった。歩みも一人が一人として歩めるようになります。これからの人生には大きな場所とテーマが設けられていますので、ぜひ聞くということを大切にして欲しいと思います。

酒井指導:

いよいよ最後の日、別れの日を迎えました。寂しさもありますが残された時間を大切に過ごしたいと思います。昨日は遅くまで起きておられたかと思います。眠いですね。その気持ちはわかりますが、その人を隣の方がやさしさをもって「ともに聞こう」と起してあげてください。

◎修練は人生の縮図

この一週間、自分の身におきたことを振り返ってみよう。初対面の人と出会う、言葉を交わす、戸惑う、笑う、悩む、言葉と出会う・・・。修練はまさに人生の縮図だ。朝の法話に「わかるということと身に付くということは違う」とあった。真剣に聞き、真剣に語るということを、これからはあなたの生活の場所で、あなた自身が実践し、身に付けるのだ。修練は今日で終わる。そして、修練後のあなたの歩みは、今日から始まる。終点は新たな出発点となる。

(口述)私が修練道場に張り巡らしている情報網によると、この修練が終わったら、目の前の王将でギョーザとビールを飲む人がいるらしいという情報があります。修練後なのだから、そこで聖典を開いて真宗の話をしろなどという、野暮なことは言いません。しかし、もしそこに人がいれば、話を聞き、語ることを実践してほしい。真宗の話でなくてもいいですが、話を聞いて自分を語ることを実践してほしい。 浄土真宗の長い歴史の中で3つのことが伝えられてきました。聞法、学習、伝達です。こういうことを大切にした歴史があります。聞法は聞くということ。学習は考えること。伝達は語るということです。話を聞いて自分で考えて、語る。聞き、考え、語る。この生活スタイルが浄土真宗のスタイルですから、頭で考えるのでなく、身につけていくことが今日の出発点です。

◎なぜ真剣に聞くことが大事なのか

真剣に話を聞くには、自分の聞こうという姿勢が必要とされる。しかし実はそのあとが大切なことだ。真剣に聞けば、言葉が向こうからやってきて聞こえてくる、私の身に響くということが起こる。そのことをこの場で実体験した人もいることだろう。身に響くということをさらに重ね、深めていこう。

(口述)「聴聞」という言葉があります。この「聴」というのは私がすすんで聴こうということ。「聞」は向こうからやってきて私に響くこと。話を聞くということは言葉が向こうからやってきて、私を言い当てることと教わりました。

◎それでも人は歩み続ける

人は皆誰もが苦悩を抱く。しかし、だからこそ人は言葉や教えや世界にも出会うのだ。苦悩を標準装備する者、それを人間という。だから人は、人に出会い、人は歩み続ける。そのような歩みを私ひとりから始めていこう。私のことをいつでも思ってくれる世界があった。だから私は私の人生を生きていける。

(口述)標準装備です。人間として生まれてオプションで苦しみや喜びを付けられるということでしたら楽だと思う。生まれた時にいろんな苦しみ・悲しみが標準装備されている。これが人間。昨年、宗祖親鸞聖人の750回忌の法要が盛大に営まれた。なぜ750年も続いたのか。仕事だからとかではなく、750年の間、いろんな人が生まれて苦悩を抱いた。苦悩を抱えたが故に親鸞聖人の教えに出会った。皆さんもその歴史に参加することが願われています。

◎春になると人はコートを脱ぐ

もうすぐ春がやってくる。あたたかくなると人はコートを脱ぐ。風のように力ずくでコートを剥ぎ取ることはできない。それは暴力だ。太陽のようにあたたかな光を浴びると、私を照らす言葉に出会うと、自然と人はコートを脱ぐ。かたくなに自分を守っていたものが、コートを脱いで、自分の言葉で自分を語り、自分の足で自分の人生を生きることが始まる。たとえどんなに寒い冬だとしても、春は必ずやってくる。

(口述)皆さんは「北風と太陽」という話を聞いた事があると思います。旅人がいくつも身に付けてコートを着ていたのですが、北風と太陽が、どっちが先に旅人のコートを脱がすか争った。最初は北風で、強い風をどんどん吹かせたが、コートを脱ぐどころかしっかりとコートを押え、とうとう脱がすことができなかった。太陽はサンサンと暖かい光で旅人を照らした。すると、暖かな光に出会ってコートを脱ぎ出したという話。 旅人は私たちのこと。いろんなものを着飾っている。そして、がんじがらめになっている。それは自分を苦しめている。そうだったのか。私を照らす光、本来は必要でなかった自分を守るものが、一枚一枚と脱がされていく。 座談会で努力して壁を取り払うとか、追求されて取るのでもなく、班担が力ずくでということでもない。それは北風。幾重にも身構える私に日が当たることが大切だと思う。

◎課題を歩む中での再会を

言葉をふたつ、贈りたい。
「自分さえよければいい この悲しさ」
「もっともっと悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちに圧しかかっているのです。安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることはできません。むしろ、そういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です」(安田理深)

自分さえよければそれでいい世界に埋もれていないか。安っぽい喜びやちっぽけな安らぎにひたってはいないか。実はそれは悲しいことだと呼びかける声が響く。 世の中は苦悩に満ちている。人々は濁りを深めている。そのような世の中にあって、いのちの願いを聞きながら、教えの呼び声を聞きながら、私が私の人生を、胸を張って生きていくことのできる人となる。そのことが、私に願われ続けている。そんな呼びかけに応えて、終わりのない歩みを、共にしよう。 一週間、いろいろな声を聞かせていただき、ありがとうございました。私にとっても、出会いと学びのあるとても魅力的な修練でした。またこの場が好きになりました。課題を歩む中で再会できることを念じています。

(口述)私は、今52歳です。私と同世代の方も中にはおられますが、皆さんの多くは若く、20代です。親鸞聖人の750回忌を見届けられました。800回忌も迎えられると思います。750回忌を見届けた最後の世代。宗祖800回忌に向けてのスタートを切った。宗祖800回忌の基礎をつくるのは皆さん方です。教えの大事さを受け止めて頂いて、自らの言葉で発信していく醍醐味を担っていただきたい。義務ではありません。自分の人生がかけがえのない私のものだったという歩みをしていただきたいと思います。一週間ありがとうございました。

 

以上、教師修練でのお話でした。

(2012年2月12日~17日 東本願寺・修練道場にて)

存明寺の行事ご案内

〇9月30日(土)14時~17時
存明寺グリーフケアのつどい
内容:勤行・お話・語り合い・音楽鑑賞
お話:酒井義一住職 会費:500円

〇10月7日(土)14時~17時
しんらん交流ひろば★樹心の会
内容:勤行・お話・質疑・感想 会費:500円
お話:酒井浩美坊守・藤森喜美子さん(スタッフ)

〇10月28日(土)10時~
報恩講法要に向けておみがき奉仕の日
内容:仏具のおみがき・清掃
※昼食をお寺でご用意いたします。

〇11月2日(木)14時~17時
報恩講のゆうべ
内容:逮夜勤行・感話・法話
講師:堀秀隆さん(来応寺住職)

〇11月3日(金・文化の日)12時~16時
親鸞につどう「報恩講法要」
内容:お斎・法話・報恩講法要・コンサート
講師:きみえさん(真宗門徒)・渡辺一真さん(僧侶・タンゴ歌手)

**************************
親鸞と出遇うお寺
真宗大谷派 存明寺

存明寺Facebookページ

行事・催しのご案内

▶️ 新コーナー ひだご坊
▶️ 新コーナー 動画

〇新作「動画 永代経法要」2017.5.17